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また会う日まで
作 池澤夏樹 (要約:羊の勝手なまとめです) 2020年8月 第1回 終わりの思い 1 この世での日々はまもなく終わり、わたしは主の御許へ旅立つ。54年の生涯を、主への報告のために、また私自身のために整理しておきたい。 わたしはいくつかの花を咲かせることができたが、やがてわたしは枯れ、花は散る。 信仰があって良かった。信仰なくして生きる不安を想像できない。 聖ペテロはローマでの布教が困難すぎて南へ移動しようとしたとき、前からイエスが歩いてくるのに会った。イエスに、「おまえがローマを見捨てるのなら、私はローマへ行ってもう一度十字架に架かろう」と言われペテロは引き返した。 私も自身の過去へ引き返して、わたしの十字架を探そう。 第2回 終わりの思い 2 わたしたち信徒は『祈祷書』で日々の祈りの導きを与えられている。朝には旧約と新薬からそれぞれの条を、晩にはまた違うそれぞれの条を唱えることを推奨される。 わたしは一方で天文学者である。『天文年表』によって、今宵の月齢、書惑星の位置、恒星天のありさまを把握できる。 またわたしは生涯で二度の日蝕観測を指揮した。来年の金環食を指揮するのは中野くんのはずだが、わたしはもうこの金環食を見ることはできない。 1934年の南洋諸島での日蝕観測の際は、十数名の研究者と新聞記者を何名も引き連れて軍艦「春日」で行った。事前に観測計画を策定し、人員を募り、予算を手配する。 この観測の成功で全世界の航海術の信ぴょう性が増した。……こういうことを述べるのは私の虚栄だろうか? 意味もなく花を誇っていることになるのか? しかし、あの時の空を晴らしてくださったのは主だ。私は主から格別の愛を受けていると思った。そう思ったことを恥じていない。虚栄の花はそれなりに美しいのだ。 第3回 終わりの思い 3 私は海軍軍人でもあり、終戦時は水路部の第二部長で、階級は少将だった。 海軍がなくなったので、その身分は失ってしまったが、水路部は特殊な部で、今も形を変えて存続している。 水路部の主務は航海の準備なのだ。 艦船は天測で位置を知るので、計算の基礎としての精密な暦の用意と、その時の天体の位置を記す航海歴が必要で、その文書の準備をする部署をわたしが統括していたのだ。だから私は天文学者であったのだ。 更に、港では海図がいる。沿岸部では水深を測っておく。軍と民、どちらにも必要不可欠なものなので、海軍を冠することなくただ水路部と名のったのだが、それが私の誇りだった。 第4回 終わりの思い 4 トラック島近くの孤島ローソップ。この内南洋は第一次大戦で日本に預けられた国際連盟委任統治領で、ここを文明化することが日本の責務とされ、島ごとに公学校が作られ、子どもは日本語を学んだ。一方、ワシントン海軍軍縮条約が失効して、連合艦隊の泊地として整備され、海軍にとっては理想の拠点である。 私はこの島へ昭和9年の1~3月、水路部と東京天文台、東大・京大の天文学者を率いて、日食観測に行った。成果は世界に供する。戦争とは無縁だったので、アメリカからも参加があった。 この島は、初めの征服者がスペイン人がカトリックを伝え、その後プロテスタントも入った。 日曜学校の教師を10年務めたわたしなので、日曜日、わたしは教会で説教をし、島の言葉に訳された。 任務が終わり島を離れる日、島民が集まって讃美歌を歌ってくれたがこの時ほど、主イエスの力が世界の隅々にまで及んでいることを感じたことはなかった。 〽神ともにいまして ゆく道をまもり 天の御糧もて 力を与えませ また会う日まで また会う日まで 神の守り 汝が身を離れざれ 第5回 終わりの思い 5 主の前で私はこの島の人々と再会するだろう。 他には誰に会うのだろう。 初めの妻のチヨ。チヨが死んだ後生後4日ですぐに逝った長男恒雄、実の父と母。妹のトヨ。(トヨが命と引き換えに産んだ子は私の養子となる文彦) これらのすでに浄められた者たちの導きで辛うじて主の前に立とう。その門はもうすぐ目の前にある。 第6回 終わりの思い 6 チヨや恒雄は信徒なので主の近くにいるだろうが、信仰を持たない死者たちはどこにいるのか? わたしが海軍兵学校を卒業したときの席次は117名中の16位。主席はクラスヘッドと呼ばれる。大尉までは同時に昇進するが、その先は席次で差がつくようになっている。 井上茂美はクラスヘッド、永野修身は2位、山本五十六は11位。米内光政のように68位から大将になった例もあるが、学業成績は官僚としての能力だといえるが、武人は別なのだろう。 同期生の多くがもうこの世にいない。私より上位の15名のうち昭和初期までに事故などで亡くなった者4名、戦士2名、自決1名、シベリア抑留中1名。 その他、コロンバンガラ沖、本土南海面、マーシャル諸島クエゼリン、ソロモン、ミッドウェー海戦での「加賀」艦長として、「三隈」艦長として、などでそれぞれ戦死している。しかし私は死ななかった。 第7回 終わりの思い 7 ブーゲンヴィル島で戦死した山本五十六元帥の魂は靖国神社ではなく、郷里長岡に帰ったと思いたい。みなそれぞれ生まれた土地に戻ればいい。 十期先輩の山本氏とは一度だけ直に話したことがある。 わたしは水路部の潮汐専門家として呼び出され、特定の日時の特定の湾=真珠湾の潮位について、どこまで確定できるかと訊かれたのだ。 潮位は太陽・月の位置と地形によって決まり、過去の潮汐表があれば、天気などよりずっと正確に予報できると答えた。 米海軍を日本近海におびき寄せて艦隊同士が決戦するという、まさかの噂は本当だったのか。 第8回 終わりの思い 8 『目標は真珠湾』と言う山本五十六長官と、いかにして空母で闘うかの話をした。 わたしはこういうときすっかり海軍軍人となり、潮汐について話すときは天文学者となるが、こう律することができたのは、遠くから私をみている主のおかげであった。 航空機から雷撃する上でのさまざまな条件をクリアして的確に敵艦に達するための技術が、我が国は進んでいる、という。 甲標的という二人乗りのごく小さな潜水艇用に潮汐表が要るというので、わたしは精一杯緻密な表を作ることを約束した。 ふと長官は書類を見てわたしがローソップ島の日蝕観測の指揮官だったことを知り、私たちは装甲巡洋艦『春日』の話をした。 第9回 終わりの思い 9 徹底した合理だ、と山本長官が言う。信念など敵にもあるのに、信念で勝てるという奴がはびこる、という長官に「人間としての敵の姿が見えていないのでしょう」と私は信徒として言った。 長官は私の書類を見ながら、クリスチャンというのが面白い、ほとんど牧師のような経歴ではないか、という。さらに妻がアメリカ帰りということにも驚いていた。よく結婚の許可が出たものだ、と。これからは気を付けた方がいい、といわれるが何を気をつけるのかわからない。 もう一つ頼みがある、と長官は言う。「夜間飛行の制度を高めてほしい」 これを速やかに行うためには数表の準備が要る。数学的な工夫を凝らせば、計算の手間が省けるがこれは私の最も得意な分野だ。 第10回 終わりの思い 10 我々は負けた。みんな死んだ。 わたしなどは職務として戦争を選んだのだからしかたがない。しかし徴兵されて、遠い土地へ運ばれて、慣れない銃を持たされて、それさえ使うことなく飢えて死んだ者たちの無念は消しようがない。 またこの国が仕掛けた戦争で他の国の多くの民を巻き込んで死なせた。今ならそういうことがわかるが、戦争中はただ勝つこと、相手を殺すことしか考えなかった。 私の手が紡ぎだした計算結果が飛行機を飛ばし、軍艦を導き、敵とされた人々の頭上に爆弾や砲弾を降らせた、その罪がわたしにはある。 モーゼの十戒も主イエスの言葉も実行できなかった罪。 人としての弱さを詫びるしかない。贖罪の重荷を負うしかない。 第11回 終わりの思い 11 わたしは天文学者であるが星の運行はニュートン力学により厳密に予測できる。わたしの世界観は自然界の徹底した論理性・合理性の上に構築されている。 この世界を造られた主に誤りの入る余地はないので、自然科学と信仰は整合している。 ところが人間界は合理的ではない。 戦争前の準備の蓄積をaとし、運bとすると、一回ごとの戦闘の結果はaxbで決まる。 真珠湾ではbが大きな数値であり、ミッドウェー海戦ではbがとんでもなく低かった。 山本五十六さんは博打好きだったので、bの重要性を知っていた。aは負けるごとに減っていく。aが減るだけbに期待する。 負けの込んだ博打打ちが陥る罠で、資金不足から借金に走る。 第12回 終わりの思い 12 戦争の時の運は確率なので公平だが、博打には駆け引きがある。相手の手を読んで裏をかく。 国と国もしかり。 動かしているのは個人の集まりだから、その思うところは計りようがないし、集団の中にまたさまざまな力が働いていてふらつきがある。為政者は、時々果断に決定をしているように見えて国民の思いに突き動かされている。 国民は人間の束であり、感情的なので、自分たちは強いと勝手に信じ、根拠のないことを期待する。気持ちがいいからだ。 新聞はそれを煽って部数を稼ぐ。 更に、海軍の場合、予算をつぎ込んで連合艦隊を造ってきたのだから、使う場がなければならない。 負けが重なってaが減って、いかなるbでも勝てないとなっても、時の指揮官はそれを認めようとはしない。和平という選択には勇気が要るから先送りする。あの戦争は勝っていたのは最初の頃だけ。あとはじりじりと負け、ついに本土空襲に至り、天皇陛下と鈴木貫太郎さんがようやく幕を閉じた。 鈴木さんはわたしが乗った練習艦隊の司令官。アメリカで開かれた歓迎会の席で立派な演説を聴いた。 第13回 終わりの思い 13 十日ほど前、国民学校4年生の光雄と九品仏の家から後楽園球場に行った。 3月だったが曇って風もあり寒くて、わたしは中折れ帽を目深にかぶり、襟巻をし、外套の襟をしっかり閉じていた。 実業団の試合だったがチームの名を覚えていない。仮に甲と乙とすると甲はいきなり点を入れるが二回には乙に逆転されその後は乙が着実に点を重ね反撃できないまま点差は開いた。私は甲が日本、乙がアメリカのように思えた。 席を立つ者がふえたが私は判官贔屓の気持ちで残り、光雄も何も言わないで試合を見ていた。 敗軍の将の気分の私は、歴史と試合を重ね、暗鬱とした気分になっていったが、雨が降り始め、あっというまに驟雨になった。 周囲の観客が一斉に席を立った。 第14回 終わりの思い 14 試合は中断され、観客は帰り始めたがわたしは立てなかった。 亡くなった同期生、加来止男のことを思っていた。あいつが身に負った水の量に比べれば、こんな雨などなにほどでもない。 加来とは郷里の近さから親しくなり、もう一人、Mと一緒によく遊んだ。 卒業後の練習航海では一緒に豪州まで行ったし、その後別れてからは互いの消息を伝え合って、たまに会った。 加来は練習航海の後、四か月ほど(海防艦として使われていた)「日進」の乗務になったのだが、そのことは二十年たってからも、よく酒の話題になった。 昭和9年、わたしは「春日」で日食観測に行った。 「日進」と「春日」は注文主はアルゼンチン海軍で当初の名は「モレノ」と「リバダビア」といい、共にイタリアで建造された姉妹艦だ。アルゼンチンが建造途中で手放そうとしたのを知った日本が、日露海戦に備えて買い取ったのだ。 第15回 終わりの思い 15 昭和12年頃の築地の居酒屋でわたしたち三人は飲んでいた。 そのころ加来は青森の大湊航空隊指令、わたしとMは東京でわたしが水路部第四課長、Mは軍令部直属に身を置いていた。 軍艦の名前の話になった。 イギリスに比べ日本が軍艦につけている名前が古風で優雅だという話。 『霧島』『敷島』『阿蘇』『安芸』『浅間』『山城』『沢風』、そして『春日』…… そこから人の名前の話になり、子だくさんな加来の名が「止男」。「山本五十六」は父親五十六の時の子、さらに妻の伯父の「六十郎」などの話で盛り上がる…… 第16回 終わりの思い 16 加来止男は模範的な海軍軍人だった。戦艦「摂津」「霧島」「長良」などに分隊長として乗務して、大将15年に少佐に昇進し、その翌年霞ケ浦航空隊の教官になった。 昭和12年12月には大佐になり、その翌年水上機母艦「千代田」の艦長、昭和16年9月、空母「飛龍」の艦長になり、ミッドウェーで大敗し「飛龍」と共に海に沈んだ。 わたしはそんな加来のことを思って雨に濡れ、肺炎になり、帰天の日が近くなったのだ。 第17回 終わりの思い 17 Mについて話す。Mはいずれ回顧録を書くからすべて内密に、というのでわたしは彼の名を明かさないが、わたしや加来止男と同じく兵学校42期の出身で、海軍軍人として順調に昇進した。 しかし駆逐艦乗務の際に大怪我をしていざという時ラッタルを駆け上がれない、というので上層部は彼を内勤・軍令部で重用したのだ。 わたしとMは戦場から遠い同士ということで、しばしば一緒に飲んだ。ミッドウェー海戦の敗北を海軍は隠したが、それが真珠湾の勝利を裏返したような大敗北で、加来も死んだとわたしに伝えてくれたのもMだ。 また軍令部の中で広がった「水路部に耶蘇で、妻がアメリカ帰りの変なヤツがいる、。スパイではないか」というわたしについての噂から私を守ってくれた。このことを山本五十六の耳に入れてくれたことで、わたしへの圧力は消えたのだ。 第18回 終わりの思い 18 Mは海軍で三国同盟に反対した条約派の連絡係だったらしいので、危ない目に遭っていたのだと思う。 わたしが、キリスト教徒でアメリカ帰りの妻がいながら水路部で職務を全うできたのは、天皇陛下が、わたしの業績を特定して認めて下さる言葉が力添えしたのではないか、と思う。 昭和十二年三月二十六日、陛下が水路部に行幸された。 予定より長く留まり、印刷工場で仕上がった海図をつくづくと見られた後で各課の課長たちと会見の場が設定された。 わたしはその時は四課を率いて「天文及潮汐作業掌理、ならびに潮汐潮流調査観測。潮汐表編纂」などを担当していた。 一人一人陛下の前に出てお言葉を賜る。 わたしの番が来た。私は8歳ほど若い陛下の前で挙手の礼をせずに低く頭を下げた。「秋吉」「ローソップ島の日食観測を率いたのがおまえか?」「あれは見事であった」「我が国の科学の力を世界に示す偉業であった。私も新聞の報道を毎日追っていたぞ」 陛下は何かを思い出し、言葉を選びながらそう言った。 日食観測は3年ほど前のことだが、あの報道では確かに私はもてはやされた。しかし陛下がそれを読んでおられたとは…私はその喜びを主に感謝した。「忝いことであります」と深く低頭した。 第20回 終わりの思い 20 「秋吉、なにか望みはあるか?」陛下から問われて、「海軍軍人である以上、せめて一度は艦を預かってみたい」と返事していた。 陛下は言われた。「私は水路部の業務が好きだ」 そして海図を取ってこさせるとそれを広げ、今年の正月を葉山の用邸で過ごし、毎日油壷の港から船を出して海生生物の採集にいそしんだが、その時手元に常に相模湾の海図があった、とおっしゃる。 あの湾の海底地形はすべて頭に入っているが、海に出るごとに航路を書き込む。今回は南甘鯛場に行ったがあれは、俗称なので、海図では鎌倉海脚のあたりだ、と仰られ…… 第21回 終わりの思い21 陛下の話ーーー 水路部の業務は世の役に立つ大事な仕事だ。私は生物学の分野で何か業績を残したい。 水路部は海軍に属するが海軍水路部ではなく、ただ水路部という。なぜなら海図を使うのは軍艦ばかりではないからだ。戦時のための用意は使わない方が望ましい。日常の艦の運用の役に立ち、国内にとどまらず海図の周到な準備は必須である。ローソップ島が良い例だな。「はい。よい海図がありました」艦長が海図を前に、手に双眼鏡をもって号令を下していたことをくっきりと思い出した。 トラック島を海軍の基地にする動きは1936年のワシントン条約失効を機に始まっていたが、海図づくりはずっと前から進められていた。「だからさ。秋吉はじめ水路部の面々は戦時ばかりでなく、平時のために必須の国の部材だ。はやることなく陸地で海上で力を発揮してもらいたい 」 わたしは涙を催した。「秋吉。元気でな」と陛下が退場されると部長が言った。「水路部ぜんたいに伝わるようにしよう。全員の励みになるだろう」 第22回 終わりの思い 22 後になって、陛下の人格の中における科学と合理を考えた。 あの方は科学者である。科学は恣意を許さない。その一方で人の心は合理を超える。 一億の民の思いを利用して思いを遂げようとする輩が政治を動かす。 水路部の仕事は戦時だけでなく平時にも役に立つと陛下は仰せられた。 海図というものは平時に準備しておく。一定の海域でひたすら測深を重ねて、測量船の位置を陸標や天測で定めて、すべて書き込んで原図を作る。それを整備して版を起こし、印刷に回す。 その後の海況の変化はすべて手で書き込まれる。常に最新の情報を盛った図が艦船に提供される。 海図は三課の管轄だからわたしは時おり話を聞くだけだったが、開戦後、ある時期になると軍港や南洋の環礁内に沈船を書き込むことが多くなった。船体の一部でも海面から出ていればいいが、そうでないと沈船は暗礁になる。 次から次へと海戦に負けて、国民の血税で造った艦を一隻また一隻と失って、その位置を海図に書き込む。担当者の無念は思うに余りある。 そこが敵の海域になってしまったら、もう何もすることはない。その海図の整備は向こうの仕事である。 第23回 終わりの思い 23 戦争が終わってわたしは深く落胆した。 国民みなあれだけ力を尽くしたのに、すべて徒労と化し、都市は焼け野原となり、わたしの故郷の長崎は、広島に続く原爆によって消滅した。 大正11年の来日の際に熱烈に歓迎したアインンシュタインの理論をアメリカは現実にして原爆を作ってしまった。 我が国は幻想と神話にしがみついて戦争を始めたが、神頼みで戦争は勝てない。 山本長官はいい時期に亡くなったのかもしれない。あの後の打つ手のない状況を知らないままだったのだから。 第24回 終わりの思い 24 わたしは病院にいる。帰天の時は近く、世話をしてくれる洋子以外の家族は遠い稲毛に移った。 もう教会に行く体力はない。牧師を呼ぶのも間に合わないだろう。洋子は眠っている。力ない手で祈祷書を開き「病者聖餐式」を読む。 今、わたしは「また会う日まで」を歌いたい。主が許すならあの日に帰りたい。わたしとあの島は日食観測によって結ばれ、主への信頼によって島民とも結ばれ、海軍色は薄かった。純粋な科学の職務であり、予期せぬことにそこに信仰が加わったのだ。あれこそが本来のわたしだったと主に申し立てたい。 第25回 終わりの思い 25 戦争に負け、敵国だったアメリカの軍政下にある。軍人であるわたしは「敗戦」と言いたいが、世間では「終戦」と呼ぶ。 一昨年の8月15日の青空はようやく終わった安心感のしるしだった。負けを認めたくなくて何年も引きずり、多くの都会を焦土と化し、何百万もの臣民を死においやったあげくだった。海外の兵たちが、夫として父として息子として復員してくる。 終戦という呼び方がふさわしいだろうが、進んで来て駐在している軍という進駐軍は、占領軍と呼びたくない姑息な思いが見える。 今、国政はすべてGHQのもとにある。連合国軍とは事実上アメリカ軍だ。マッカーサーは松笠天皇とまで言われる。これこそが敗戦の証しで屈辱から目をさらしているのだ。わたしは軍人としてこの屈辱に責任がある。自決はできないが、野球場で雨に打たれたとき、半ばまではその思いだった。 第26回 終わりの思い 26 わたしは、家から近いもともとは海軍の病院であった国立東京第二病院にいる。 しかしここが築地の聖路加病院であったら、と思う。 わたしは長崎で生まれ鎮西学院に通い、18歳のとき海軍兵学校で江田島へ移り、26歳で横須賀の海軍水雷学校に入り、長崎の三菱造船所に移動。28歳から佐世保勤務、33歳で卒業してから築地の水路部に配属され終戦まで勤務。19年間ここへ通ったのだ。縁のあった立教女学校(聖公会系)は築地にあったし、聖路加病院も聖公会につながる。 養子であり妹トヨの次男の文彦は17歳でこの病院で亡くなっている。 そして水路部と聖路加は「路」の字を挟んで三文字である。 第27回 終わりの思い 27 聖路加の名の由来は福音書を書いた聖者に由来する。その「ルカ伝福音書」はわたしはとりわけ好きだった。 わたしが聖路加で最期を迎えたかった理由は、文彦があそこで亡くなったからだ。私の妻チヨと同様、妹トヨは文彦を産んだ直後に亡くなった。この国の医学の力の心細いことか。 文彦が私とチヨの養子になったあと、洋子が生まれ、チヨ亡きあと、後妻のヨ子との間に三男二女を得た。 文彦の兄の武彦は東大へ行ったが、文彦は立教大学で学び、脚本を書いたり演出をするようになり、後仲間と児童劇団を作った。 妻と見に行った公演の演目は「きりしとほろ上人伝」。芥川龍之介の原作だ。 第28回 終わりの思い 28 児童劇「きりしとほろ上人伝」 昔、「しりあ」の山奥に「れぷろぽす」という大男がいた。その力で人助けをしていたが、ある時功名心が湧いて「あんちおきや」の帝に仕え、大名に取り立てられた。宴席で帝が「悪魔」という言葉が出るたびに手で十字を切っているのを見て、それなら帝より強い悪魔の所へ行こうと公言し牢に繋がれるが、悪魔によって解放され「えじっと」の隠者のもとへ運ばれる。「えす・きりすと」を信仰しているこの隠者が、悪魔のつかわした美女の誘惑をはねかえしたのを見て「れぷろぽす」は今度は悪魔を見限って隠者の教えを乞う。 隠者は近くの流れの速い川の渡し守になれと言って、「れぷろぽす」に「きりしとほろ」という名を与えた。 三年ほど後、一人の子供が来て川を渡してほしいと言った。 第29回 終わりの思い 29 「きりしとほろ」は子供を肩車して渡りはじめたが、一歩ごとに負っている子供が重くなった。渡り終えた時、子供は おぬしは今宵と云う今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた「えす・きりしと」を負いないたのじゃ。 と答えて姿を消した。彼が使った柳の杖の周りには赤い薔薇が咲き乱れた。 これは隠者によって予言されていた。「きりしとほろ」は「キリストを担う者」の意であったのだ。 芝居を見ての帰路、わたしは四十雀のことを思った。「しりあ」の山の中の「れぷろぼす」の頭上にはいつも四十雀の群れがいたが、俗世の欲を抱いた「れぷろぼす」の頭上からは去り、信仰を得て名を「きりしとほろ」と改めると戻ってくる。 四十雀は恩寵の証しではないのか。 わたしは今、この病院にあっておのれの罪の重さを思っている。わたしは栄誉を求めて海軍という「あんちおきや」の帝に仕えた。一定の栄達を得て少将にまでなった。その一方で日曜学校の教師として子供たちを川の向こうに運ぼうともした。 それをもって「えす・きりしと」はわたしの罪を担ってくださるだろうか。わたしの頭上に四十雀は舞うか。 第30回 終わりの思い 30 今は正子を過ぎて1947年3月23日。もうじき夜明けだ。「カイザルの物はカイザルに、神のものは神に納めよ」というが、わたしは軍人としてカイザルに仕えることが多すぎた。それが罪となり、戦場の死者たちへの責務、国民への責務となって肩に重くのしかかる。 わたしは戦争に加担した。勝てないとわかっている戦争の遂行を職務とした。たくさんの人を死なせ、爆弾を積んだ飛行機を敵地へ導くための数表を作った。 そしてわたしを最後に追い詰めたのは公職追放の噂だった。職業軍人がその筆頭に挙がるはずだというのだ。 天皇陛下は、平時にも役に立つ部材だと言われたが公職追放となれば日本の天文学界にわたしの席はない。 国立天文台も大学もわたしを受け入れないだろう。 妻のヨ子とGHQが新しい水路部の部長という席を用意したが日本政府の横槍で潰れた。 今、わたしには死の天使の翼の音が聞こえる。では主の導きのままに次の世界へ旅立とう。 ここまで 《1947年3月23日、死を覚悟したわたし(秋吉利雄)は、キリスト教徒として神の元に旅立つ前に過去を振り返る。海軍の水路部での天文学者としての仕事に誇りは持っていたが、勝ち目のない戦争に加担したことも確かだった。》 2020年9月 第31回 海軍兵学校 1 わたしは一八九二年十一月十八日に生まれた。天文学者でありキリスト信者なので西暦で意図的に表記する。 満年齢で年を数えてきたのも、他人とは違うが合理精神ゆえだ。 それでもわたしは明治の子だった。 11歳で始まり12歳で終了した日露戦争の日本海海戦の勝利はわたしの進路決定に大きな影響を与えた。 それから大正、昭和と変わったのはわたしが東大の理学部を卒業した年の末だった 第32回 海軍兵学校 2 人には親があり、その親にはまた親があり、辿ればこまでも遡ることができる。「マタイ伝福音書」はキリストが生まれるまで十四代の系図から始まっている。しかしヨセフはキリストの父ではない。 父から父へだけで系図を作ることはできるのか。人の社会は父親だけを親とする父系を基礎とすることにし、主イエスの系図は一筋の道として示される。 父と母それぞれの祖先は次々に枝分かれして一世代ごとに増えてゆくので遠い過去ほど人の数は多かったことになる。それが子どもの頃の疑問だった。 わたしは長崎で生まれた。 父は井上岩吉。 母の婚前の名は吉広ナカ。 ナカの父は吉広徳平。 母はフサ。 その前も数代は遡れるが主イエスの四十二代にはとても及ばない。と、これは私の冗談であるが。 父、岩吉は自らの意思で洗礼を受けてキリスト教徒になった。 聖公会という教派であり、これを伝えたのはウィリアムズ師であった。 師の宣教は多くの困難に遭遇した。安政六年にいらした時は切支丹は禁教だった。 第33回 海軍兵学校3 父は成人してから洗礼を受けて信徒となった。母がそれに続いた。 父から聞いたところアメリカからの最初の宣教師が長崎についたのは安政六年、1859年で、禁教のため、密かに布教していた。 清貧の暮らしで、イエスの時代にはなかった、と薪ストーブも用意せず、食事も質素で、料理人が買ってきたものが高すぎる、と買い替えを命じる。やってられない、と料理人が辞職しようとすると、買い直しで余った金を料理人に渡したことに感動し、逆に料理人は生涯仕えることになり、洗礼を授けてもらい、最初の聖公会の信徒になったという。…とこういう形で日本に入ってきたのだという。 父は、井上岩吉。母は吉広ナカ。岩吉は生まれは福岡県の水城。母は二日市で遠くないので、もともと親戚であったかもしれない。 岩吉は31歳の時に洗礼を施され、熱烈な信徒になった。親族一同が反対し、長男であったにも拘わらず家督を相続させないと決めた。岩吉は妻子を連れて未開の北海道に移住して開拓に従事、苦労を重ねた後に荒れる海を船で渡ってまた九州に帰った。 わたしはまだ生まれていなかったが、その後姉のヒデ、兄の新、後に妹のトヨが生まれた。 父の生涯はひたすら信仰の普及に努めることに費やされた。 第34回 海軍兵学校4 父は自分が受洗し、妻にも促し、家族に反対されると北海道へ渡り、岩見沢に移住して苦労したあげく、夭折した子の粗末な墓を残して、荒海を渡って長崎へ戻った。 父は運命をすべて与えられたものとして受け入れ、野外礼拝の差配や佐世保では教会設立に奔走した。 父の伝道熱の源は何だったのだろう。伝道師になっていく妹のトヨは受け継いだが、わたしにはあの信仰の力はない。 それどころか、父や兄や妹の信仰心にいささか重苦しさを覚えていた。 できるかぎり教会には行くが、朝晩の祈りや主日の礼拝を欠かさず行うまではできなかったので、家を離れて寮に入ったときは、少し息をつけた。 その後で海軍兵学校に入ってからは、わたしは信仰を隠さねばならなかった。まずは一人前の軍人になることが目的だった。 第35回 海軍兵学校5 わたしは長崎の尋常高等小学校を出たあと、父の宣教師の職務を手伝っていて、16歳の時に兄と共に信徒按手式を受け信徒として自覚的に生きることを誓った。 学習は、中学の教科を自習していたが、友人が鎮西学院というメソジストが経営する学校のことを教えてくれた。そこで二学年の三学期への編入試験を受けたが失敗。一学年からやることになったが、その時、笹森院長が学期を終えたら、もう一度飛び級の試験をしてやると言ってくれた。 そのつもりで猛勉強をしていたら「飛び級制度は廃止になった」と言う。憤慨して院長に談判に行くと、「君はなかなか理屈をいう。将来見込みがある」と飛び級試験を許す英文を紙に書いてくれた。 第36回 海軍兵学校6 わたしは、その院長先生のメモを持って各教師の間を回った。まず図画の先生の「見込み点六十点」と言うのが呼び水になり、他の先生たちも合格点を言って下さる。試験を受けた教科も点がよくてわたしは三学年に編入できた。 身体訓練の時間に培った体力は後々の江田島での激しい訓練の役に立ち、古鷹山競争登山ではわたしはいつもトップグループだった。帆船訓練でマストに登るのも速かった。 鎮西学院では英語にとりわけ多くの時間が割かれ、読解だけでなく聞く力・話す力を養った。このおかげで後にわたしが練習航海などで行った先で普通に会話ができた。扱いの軽かった理数は自分で補った。 学費の足しに、わたしは週末ごとに長崎に住む、異人さん=外国人の家の窓ガラスを拭いた。教会に関わる方たちの家にも行った。 わたしが生涯師と仰ぐ、信徒按手式に立ち会って下さった牧師の牛島惣太郎先生がそういう仕事の斡旋者だ。 この方の話は今の妻との縁もここに由来するのでこれから何度か話すことになる。 第37回 海軍兵学校7 わたしは鎮西学院を首席で卒業した。親たちは名誉なことで喜んだが、主は誇る気持ちを戒められる。 常に謙遜だ。 それはそれとして私は答辞を読む責務を与えられた。 明治43年の答辞の、自分の書いた原稿が手元にあるが、途中からなぜか水で滲んでいて読めない。 第38回 海軍兵学校8 学校によって印刷された答辞の原稿の文章の先に「本学年度の卒業生の姓名」一覧がある。 それは成績順で書かれている(私は筆頭)が、同時に○○県平民であるのか、〇〇県士族であるのかの区別がされている。わたしは「福岡県平民」だ。そう書かれていたからといって、立身出世は本人の実力しだい。わたしの生まれる25年も前に日本はそういう社会になっていて、わたしも不利益はこうむったことはないが、世の中にはまだ使われていない才がある。 女たちだ。初めの妻のチヨも今の妻のヨ子も才女だったし、水路部は女子の計算能力に帝国海軍は多くを負っていた。 士族と平民について思い出すのは甥の武彦の愚痴である。妻の澄子の母親が淡路島稲田藩の下級武士の娘。夫となった庄之助が平民で身分差をしばしば嘆くと言う。 一家は一時は大きな牧場を経営していたというから、没落の無念も混じっているかもしれない。ちなみに庄之助はわたしより一、二歳は下であるらしい。 第39回 海軍兵学校9 鎮西学院に入って飛び級をめざしていたころ、わたしに養子縁組の話が舞い込んだ。 我が井上家の遠縁の秋吉家は女ばかりで男子がおらず、家督を相続するための男子、ということで私が選ばれたのだ。 井上家にはすでに兄がいる。 だいたいが養子縁組や従兄妹の結婚で網の目のようになった広大な親族である。 養父母になる徳三郎とロクは善良で篤実な夫婦、という印象だ。 わたしは受けることにしたが、婿養子にはならない。籍を移して姓が変わるのはいいが、それ以上の束縛は遠慮したかった。 秋吉家は旅館を営んでいたが、そちらはいずれ婿になる方にお任せする。その時にわたしがいることが邪魔になるのなら籍を抜いていただいてかまわない。 わたしはその頃から海に出たいと考えていた。 第40回 海軍兵学校10 長崎は歴史のある港町で、戦国時代はポルトガル船、江戸時代はオランダ船が出入りしていた。 毎日見る海の右手が浦上川で船は左手から入って左手へ出ていく。南西へ向かえば東シナ海。 造船所があって、そこで働く人も多く、街全体が海を前に浮きたっている。 海に出るには船だ。遠い外国にも行ける。 わたしが商船ではなく軍艦を目指したのは、日本海海戦の勝利の興奮の名残があったからだろうか。冒険心がそそられた。 生みの親はすんなり賛成、養父母は大いに賛成。。海軍兵学校は120名くらいで、25倍の競争率だったが落ちてもともとだ。 だが、教会の牛島先生だけが「反対はしないが軍人は人を殺さなければならない場合があり、モーセの第6戒に違反することを覚えていなさい」と言った。 第41回 海軍兵学校11 親の用事で福岡へ行った降り、叔父の家へ泊ることになった。 懐かしく大人びたチヨが、高校の夏休みで帰省していた。学校の成績は全甲で行事の祝辞の役などももらっている、という。 もうすぐ海軍兵学校の入試を控えた私には縁起がいい。入試は熊本で5日間くらいかかる、などと話していると、チヨはすっと寄ってきて、唇を合わせてきた。きっと合格する、祝辞の運を分けてあげたのだ、という。 抱き寄せようとすると突き放して「こんなこと、生まれて初めて」といいながら部屋から出ていった。 翌日の朝食では目も合わせてこない。女は何を考えているかわからないが、それでも試験への自信がわいた。 第42回 海軍兵学校12 熊本の入学試験.。受験者の数を実際に見て、少し怯んだが、チヨからの運が効くかもしれないとも思った。 初日は身体検査と運動能力検査。 まずは視力だが幼い時から星が好きでよく夜空を見ていたのが良かったのか、あっさり通った。他の身体検査も問題なし。徒競走や、肋木の反復上り下り、鉄棒競技などでは落ちるはずはない。 二日目からは学術試験。わたしは自習だけだったがもともと勉強が好きなのだから参考書だけでもいけるはずだ。 代数はすらすら機械的に解く。英語の問題の解答は、こう書いた。 ―― 彼は勇敢な男であった。それは真実であるが、しかし虎と対峙するほど勇敢ではなかった。ただし自分が銃を持って象に乗っていれば別だが。 その日に発表。わたしは落ちなかったがまだまだ難関が待ち受けている。 第43回 海軍兵学校13 翌日は幾何と物理と科学、3日目は国史と漢文と作文。わたしは次々と突破して最後の口頭試問に臨んだ。 3名の試験官の前で問われることに熟慮を重ねて答え、理科・数学に自信があることを伝えた。 それで試験はすべて終わり、家に帰って結果を待つ。この段階で競争率は5倍くらいあったのではないか… ぼんやりと落ちたらどこへ行こうか、などと考えながら待っていると電報が来た。 海軍兵学校生徒に採用の予定。 郵便局で頼信紙にわたしその返事をは書く。「エタジマヘサンジヨウイタシマス」 第44回 海軍兵学校14 手引きのとおりにして江田島に渡った。 何十人もいる優秀な仲間の列に伍せて幸いだとも思い、卒業できるか不安でもあった。 桟橋には、一号生徒と呼ばれる最上級生が待っていた。寮の生活指導もこの集団が行う。 島の一角はすべて敷地でたくさんの建物があるので、広大に見えるのだが、生徒館の前で私服で記念写真を撮った。 そのあと衣服一式を与えられ、これまでの衣類は小包で家に送り返すので別世界の感がある。 講堂で、校長から剛健鉄のような体躯をもつこと、高潔玉のような徳望を備えること、明敏鏡のような叡智を具備すること、などの訓辞があり、その後でクラスの団結が言われた。 四十二期の生徒として常に結束せよ。今後、一生、海軍軍人であるかぎり、この絆は決して緩むことはないと思え。 たしかに結束は固く、同期の仲間はなにかと互いを守り合った。 この仲間意識は海軍全体に及び、結果として国よりも海軍を大事にしたのではなかったか。 第45回 海軍兵学校15 兵学校では新入生は三号生徒と呼ばれた。 寮での完全集団生活だから、規則を覚えて体が自動的に動くようになるまでが大変で、よく殴らる者もいた。 朝は5時半の起床ラッパで、まずは洗面所で洗顔。 そして駆け足。生徒館の前では号令演習をしている。午前6時、体操始めのラッパで体操。その後は自習時間と朝食。 朝食が済むと白い事業服に着替え、靴を磨き、鞄(ベグ)に教科書やノートを入れて課業の準備。 そして7時45分、小銃で武装した一個分隊が行進を始め、55分、次のラッパと号令で軍艦旗を広げて索に結びつける。 「十秒前!」「気を付け!」全員が直立不動になる。 「時間!」「揚げ!」「捧げ、銃!」 「君が代」のラッパと共に軍艦旗が上る。 わたしは感動し、この仲間と一心同体と思い、本来は神の国に属している自分の心を、この瞬間忘れた。 第46回 海軍兵学校16 渡された衣服は正服と略服と夏服。 正服は紺の羅紗でボタンが七つ。襟に金の錨マーク。 略服は紺のサージで夏服は白の葛城織で形は略服に同じ。それぞれに同じ生地のズボン付き。 更に帽子、短剣、剣帯、短靴・二足、編み上げ靴と運動靴。他には越中褌、シャツ、袴下、靴下、ワイシャツ、日常のための事業服と略帽。 だいたい下駄で通してきたし、見たこともないものばかりなのを、一号生徒が手取り足取りついて教えてくれる。 身繕いして帯剣、着帽して鏡に向かうと、我ながら立派で思わず口元が緩む。 分隊伍長(筆頭の一号生徒)が訓戒を垂れる―― 貴様らはこれからはいやしくも大日本帝国の海軍兵学校生徒である。一歩江田島を出たら万民の注目の的であると思え。だらしない歩きかたはするな。背筋を伸ばし胸を張れ。 同じ歳の連中に比べてお国は貴様らを破格に扱っている。これまでこんな衣装持ちだったことはないだろう。これからも衣食住は保証されている。それはお国が貴様らの将来に期待を掛けているということだ。三十倍の試験を通った選良として、勉学と訓練に励め。以上。 第47回 海軍兵学校17 日々が新しく、毎日知力・体力が1ミリずつ伸びる気がした。午前中の普通学は国語、漢文、英語、代数、幾何、三角法、物理、化学、地理、歴史、倫理で、進みは早かった。国史以外はその後一つ残らず役立ち、特に数学と理科は生涯の主軸となった。 教官は普通学では文官がほとんど。 (息子の舞台で使った「きりしとほろ上人伝」の原作者の)芥川龍之介は横須賀の海軍機関学校の英語の教官だった時があるらしいが、異色で、「戦争に負けることも学べ」と言って敗戦と衰亡に関わる教本ばかりを選んだという。 しかも椅子に横に座って脚を組んで喋り、大正天皇行幸の折もそうだったので「敗戦教官」というあだ名がついたという。 第48回 海軍兵学校18 午後の後半は訓練だった。 水泳に始まって、短艇、体操、不動の姿勢・早足・駆け足、射撃、柔道、剣道、相撲、更には弓術や馬術まであった。 相撲だけは苦手だったが意外に腕がよかったのが弓術で、一高で弓術部に入った甥の武彦にも自慢話を聞かせたものだ。 三高の寮歌には大谷探検隊の成果を踏まえてのことに思える歌詞がある。西域への探検隊は三度まで派遣されたが二度目三度目はわたしが鎮西学院にいた頃だ。異国の知識の到来に日本中が夢中になった。 兵学校の仲間のMとなにかのはずみで大谷探検隊が話題にし、Mがゴビ砂漠に行きたいという夢を語ったりした。 そこからMは終生の友となった。 第49回 海軍兵学校19 三角法の授業の時、「ある男が南へ三里、東へ三里、更に北へ三里歩くと、元の場所に戻っていた。そこはどこか?」という問題が出された。わたしはそれが北極点だとひらめいた。 教官が三角法について説明する。「初めは平面三角だが、本格的にやるのは球面三角法だ。なぜなら航海術で必要になるのはこちらだからだ」わたしはこれを美しいと思った。 続いて、海里という距離の単位が、緯度でちょうど1分。60倍すると1度の距離でそれを90倍すると1万キロ。 メートルが極点から赤道までの距離の一千万分の一という原理によってフランス人が測量で作った、という知識にうっとりした。 「船が北緯二十三度から北に向かって六十海里進めばそこは北緯二十四度。ただし経度に沿った東西方向にはその位置の緯度の余弦を掛けて減じなければならないが、この数値が赤道で1、極で0。任意の二点間の距離となるともう少し複雑な数式が要る。諸君はそういうことをこれから学ぶのだ」 第50回 海軍兵学校20 三角法の授業がわたしに水路部に進ませた契機となったのかもしれないが、わたしはもともと星が好きで空き地で星を眺めたり、星座早見盤で星の位置を頭に入れていた。 わたしは目が良くて、目の検査の指標となる北斗七星のミザールとアルコルの識別が苦もなくできた。 兵学校で双眼鏡を手にしたときは星と星の間の無数の星を地面に仰向いて眺めたものだ。 自分の進路として水路部が的確か否かは兵学校の段階ではわからなかったが、新しい星が頭上で輝きだしたように思われたのは確かだ。 わたしはある程度の数学の能力があったがそれは既成の数学の応用に過ぎない。天才ではなかった。五十歳を前にわたしが得た博士号の論文の題は「航海天文學ニ関スル研究」で、その始点はあの日の三角法の授業に置きたいのだ。 第51回 海軍兵学校21 兵学校の行事の一つとして古鷹山登山があった。といっても376mの山。ツツジが咲き乱れているころだった。 その山頂で教官が眼下に広がる呉軍港の大麗女島と小麗女島という島を教えてくれる。 そして、港の出口あたりの軍艦が、動いているか否かを生徒に問うた。 煙突の黒い煙を指摘して、動いていると答える生徒に、停泊中でも釜を炊くことがあること、艦船の煙突はチムニーではなくファンネルということを教えたあとで、正解にからめて海戦というものを教示してくれた。実感がわいた。 「あの艦は動いている。艦尾の先に僅かに白い航跡が見えるだろう。ゆっくりながら航行中、微速前進だ。ここからあそこまではほぼ三海里。あれが敵だと仮定して砲撃することを考えてみろ。軍艦同士の戦いでは最初から必中は狙わない。まず敢えて手前に照準する。これをアンダーシュートと言う。水煙が上がるからその位置を記録する。次に砲の仰角を上げて標的の向こう側に着弾させる。これをオーバーシュートと言う。これを繰り返して最適の仰角を決める。夾叉砲撃というのだ」 第52回 海軍兵学校22 古鷹山の中腹での射撃訓練が始まった。標的まで五十メートルの拳銃射撃場は上級生が使う。三号生徒の小銃射撃場は谷を挟んで三百メートル先。「射撃用意!」で自分の番号の位置に伏せ、土嚢に銃身を置く。実弾は5発。「装填!」で弾を込め「打方、始め!」となるがなかなかあたらない。成績は同心円の中心から五番目の輪までならば青と白、十番目までだと黄色の旗。着弾の位置はオタマジャクシの形で示される。「引き金は引くのではない。そっと落とすのだ。どこで撃発するか、銃によって癖がある。一発目でそれを覚えろ」 腕がいいと陸軍に行け、と茶化される。わたしはそう下手な方ではなかったが、回を重ねるごとに少しずつ憂鬱になってきた 数十グラムの銃弾が初速毎秒何百メートルかで人の身体に命中する。貫通したとしても、射出口は大きいので、その間の組織・臓器は破壊される。モーセの第六戒に違反している。 第53回 海軍兵学校23 海軍兵学校への進学を親たちは喜び、牛島牧師はモーセの第六戒との関連でよく考えろと言ったのだが、わたしは自分のキリスト教をどう扱えばよいかわからなかった。 学校の雰囲気がわからなかった入学の時は、心の中で祈りを唱えようと決め、聖書の類は持ってこなかった。 寝床に入ってから寝に就くまでの間に「主の祈り」を唱え、わたしは主と結ばた。 二号生徒になる前の夏休みについに聖書と祈祷書を家から持ってきたが、この勇気が出たのは成績がよく、この学校の自由主義もわかってきたからだ。 みなが寝た後で聖書を手の内に持つことができた。 あの時代は、大正デモクラシーの先駆けの時期で、欧州の戦争は遠く、世間は余裕に満ちていた。 外出の許可される日曜日、教会のミサに与れないかと町をぶらついた。街には教会はなかった。 第54回 海軍兵学校24 教会を意味するエクレシアは本来は集会の意味で、弾圧の厳しかったころに信者は地下室などに集ったが、それは迷える子羊である信徒がは弱い心のゆえに集い、主の声を聞き天国をめざしたものだったのだ。 江田島にいたわたしに教会は遠く、またわたし自身も父や姉兄のような信仰心はなかったが(軍人を選んだのがその証拠だ)それでも日々の大変さの中で、教会の平穏な時間を夢想した。 夢想の祈りの場で私はカイザルに仕えることと、主に仕えることの撞着の中で生きてゆく運命を改めて覚るはずだ。 この撞着は苦しいだろうが私はこれを引き受けよう。 第55回 海軍兵学校25 乗艦実習の日が近づくと(卒業すれば士官として艦に乗り組むことになるが、)平(ひら)の水兵の職掌を一通り体験させられる。ハンモックの扱いの実習のあと、練習艦「二河川丸」で出港した。号令のままに甲板を走り回りながら、生涯このような艦の中で過ごすことを感慨深く思う。 夕刻、当直兵が航海灯の点灯を確認する。海上で他の艦船の赤が見えたら航路を譲る。緑なら基本は自艦が優先。 翌日、多度津沖に差し掛かったとき、先任伍長が空の醤油樽に小銭を入れろという。賽銭樽だ。 金刀比羅宮は海を行く者を守ってくださる。これを海に放つと見かけた漁船が縁起をかついで必ず拾ってお宮さんの届けてくれる、という。 海に出た不安を金比羅さまが救う。比べてわたしの信仰はどこまで深いのだろう。 第56回 海軍兵学校26 数日後、三号生徒の演芸大会が開かれた。 一号生徒から歌える歌を歌えと言われ、香川出身の者が「金比羅ふねふね」、宮城出身者が「大漁唄いこみ」、北海道の者がソーラン節を歌った。 〽ゆめのしゃこたん、びくにのはまは、ぬしにみせたいものばかり そんな海に縁のある歌の数々を聞きながら、日本中からここに集まってきたことを実感して感動した。 第57回 海軍兵学校27 帰路で練習艦は航海長の腕前の披露のために、三原の瀬戸という狭い水道を通過した。 万一に備えて、浸水対策と錨を用意する。 三原の市街が見え、やがて安芸灘に出て、夕刻、艦は倉橋島の本浦泊地に近づいた。 前甲板には運用長が出て前部員たちと待機し、艦橋に艦長と航海長が詰める。 海図には目標となる小高い山から一千、六百、三百メートルのところにそれぞれ印が付けてある。 航海長が羅針儀(コンパス)を見てコースを決め、距離を報告。艦長の号令を伝令器が機関員に伝える。 前甲板では測鉛手(レッドマン)が水深を測って報告する。測鉛のグリースに石やら砂やらが付着して上がってくる。 「一八(ひとやー)! 底質岩(ていしついわ)!」 「一五(ひとごー)! 底質砂(ていしつすな)!」 「三百メートル前!」 「一四(ひとよん)! 底質泥(ていしつどろ)!」 「錨地(びょうち)!」 「錨入れっ!」 「両舷後進微速!」 「両舷停止!」 艦はゆっくりと停止した。 第58回 海軍兵学校28 冬期の短艇橈漕訓練は格別に厳しかった。 漕手12名に艇長兼舵手が1名。櫂の長さは4.2m。 わたしはこの訓練が好きだった。「勝負する」という思いが薄い私は、仲間とただひたすら漕ぐのが心地よかったが、手のひらは豆だらけ、尻は赤く剥ける。 愉快だったのが訓練最後の日の競漕だ。 分隊対抗でコースは宮島までの十海里。櫂一本に二名の漕手で二十四名の他に分隊伍長が艇長、指揮官として分隊監事、その他に予備員。 内海とはいえ波は荒く、櫂が水を掴み損なうと漕手は力余ってひっくり返る。 そこへ元気を出せ、と分隊監事が柄杓で漕手の顔に水を浴びせる。ゴールが見えてくると「櫂立てーっ!」と号令されて十二本の櫂が林立する。 我々は三位に終わったが、それでもみんな満足した。 第59回 海軍兵学校29 大正三年十二月十九日、三年三か月の課程が終わる。海軍兵学校の卒業式典では伏見宮による証書授与、校長挨拶、クラスヘッド三木繁二の答辞、下級生の送辞、来賓の祝辞、軍楽隊の「君が代」の演奏があった。 わたしたちは生徒から少尉候補生になった。 わたしには海軍軍人としての誇りはある。117名中の席次16番。よほどの失敗がない限り職を失うことはないが、身につけたのは技術だと考えた。制動装置のない艦船で静かに接舷する技術。海軍は合理の世界だ。 しかし海軍は、三国同盟を推し進めて造艦を推進し、真珠湾の開戦を止められなかった。 伏見宮は艦隊派の後ろ盾であり、軍人たちはこの宮の思いを忖度して動くことで三国同盟という尻馬に乗ってしまったのだ。 2020年10月 第60回 練習艦隊 1 《長崎の敬虔なキリスト教徒の両親のもとに生まれたわたしは、鎮西学院を首席で卒業し、難関の海軍兵学校に進む。座学と訓練の日々で引かれたのは、航海に必要な三角法。星への憧れを自覚するのだった。そして3年間の課程を終える。》 式を終え、そのまま「近航海」=近海の練習航海へ。わたしの乗った「阿蘇」と僚艦「宗谷」は出航して後、有明湾、鹿児島、三池、長崎、佐世保、黄海を渡って青島、旅順、大連、仁川、鎮海、日本に戻って舞鶴、神戸、大阪、津、清水を経て横須賀に至る予定で、四か月先には遠洋の練習航海だ。それからは軍艦に乗務する日々が一生続くはずだ。 佐世保に停泊しての半舷上陸の機会に、実家に顔を出した。 妹トヨといとこのチヨが正月休みできていた。トヨは大阪のプール女学校、チヨは小倉高等女学校の生徒。 父が「立派になったな。主の加護に感謝しよう」という。「まあなんとかここまで来ました。そう言えば、チヨ、入学試験の時の応援、ありがとう」 私がいうとチヨは顔を赤らめてはぐらかしたが、あのキスは効果があった。 第61回 練習艦隊 2 大正4年4月20日、わたしは練習艦隊旗艦「阿蘇」にいて、司令官、「阿蘇」艦長、「宗谷」艦長、皇族付武官、横須賀鎮守府司令長官、軍令部長、海軍次官などが居並んでの出航式に参加していた。出港のラッパのあと、練習艦隊は長途の旅に出た。 最初の目的地は香港。卒業生は「阿蘇」と「宗谷」に60名ずつ分乗した。 候補生は500名ほどの下士官と兵に支えられて士官となる儀倆を身につけるが、彼らの業務を体験することもあった。 一番つらかったのは寄港地での載炭。燃料が重油に代わる前の話だ。 それでも海軍は毎日白米6合を与えられ、布団や釣床で寝られ、風呂にも入れるいい職場だった。戦闘の結果沈むこともあるが、今は戦争の気配はない。 第62回 練習艦隊 3 航海中はずっと教育訓練=教蓮の連続だった。戦闘教練、夜間教練、船舶臨検教練、拿捕教練、防水・防火教練、応急操舵教練、霧中航行教練、陸戦教練、曳航教練、派遣防火隊教練、その他に、用具や被服、倉庫などの点検が頻繁にある。 おもしろかったのがハイライン教練だ。練習艦隊「阿蘇」と「宗谷」が並列して進み、まず索投擲銃(さくとうてきじゅう)を用いて細い索(=つな)を両艦の間に渡し、その索をデリック(クレーン)の滑車に掛け、より太い索に替え、最後には人や物資を積めるほどにして、これに籠を下げて実用に供する。うっかりすると籠の中の人や荷は海水に浸かったり、索が切れる。すべてウィンチ操作なのだ。 後年、燃料が重油になってからは、ホースを渡して洋上給油をしたらしい。 また、縦列で進む前の艦から後ろへブイを流し、書類を送ることも行われた。これは無線が封鎖された時の文書の入手の方法だ。紙の文書が要る場合(たまたま切らした海図とか)、こういう方法もあるのだ。 第63回 練習艦隊 4 横須賀を出て九日後、艦隊は香港に入港して二日目、ヴィクトリア・ハーバーに着き、上陸許可が出た。候補生には初めての外国の都。そこで「宗谷」の仲間と一緒になり、加来とMを見つけて街へ繰り出した。 繁華街を大人数で歩いていたが、しだいに数が減り、最後は気ごころしれた私たち三人になった。「とりあえず高いところを目指そう」というMに従って坂を上ってゆくと、市電のようなものがある。つるべ井戸式の鋼索で引き揚げる車両で、10分ほどで頂上駅に着いた。市街が眼下に広がり、海を隔てて九龍が見え、彼方には大陸が無限に続いている。地続きで一度も海を渡らずにヨーロッパに行かれる。 島国の我々はその分、海軍が大事なのだ、という話になった。 第64回 練習艦隊 5 香港島の山頂から下ると、市街地に戻った。そこに土産物屋があったので入る。帰港は何か月も先なのでひやかすだけのはずが、なぜか小さな物が目に入る。店主に聞くと「媽祖 海上平安的女神」と漢字で説明書きする。自分の守り神に、との名目で買うと加来もMも買った。しかし私はチヨにやるつもりだった。 そのあと、安直な料理店に入り、酒を飲み、料理を食べた。 「菜単」から「麺」というものを選んで注文すると汁の中に細いうどんの塊が浮いている。 うまいが、なかなか箸でほぐれないので格闘していると、ボーイが大きな洋バサミで切ってくれた。 第65回 練習艦隊 6 香港のあとは西貢(サイゴン)の港へ入った。この港は海から数十キロ河を遡った先にあるのだが、狭い水路での操艦の様子を、候補生10名ずつの班で見学する。 双眼鏡での他の艦船の動きの監視、コンパスの数値の読み上げ、海図への航跡と針路の描きこみ、手旗信号の指示、機関部との伝令器の操作などなど。 引率の少尉が、陸上の大看板の英文字の意味を教えてくれる。Iはinで入る艦船優先、Oはoutで出る船優先、Fはfreeなので勝手に出入りしていい。 西貢の街も加来とMと三人で歩いた。 5月10日、士官と候補生は海軍工廠の見学に招かれた。その日の夕刻、この街の邦人を艦に招いて立食の宴を催した。 客は夫人や令嬢を連れていたが、久しぶりの女人に接して、みな心騒いだ。 第66回 練習艦隊 7 サイゴンからシンガポールの航海の間に、洋食の作法を学ぶ教練があった。 正式の洋食を食べたことのあるものは皆無で、十人ずつの班に分かれて学んだ。 白い布を敷いた卓に座り、ナイフとフォークは外側から使い、士官用の烹炊所が調理した本物を一段階ずつ練習する。 給仕するのははもったいなくも、左官級の士官につく従兵。音を立てずに胸を張って食え、と言われて、はしゃぎながらも静かを心がける。 葡萄酒は酔うためではなく、味を楽しみ、会話を進めるため。二時間続く食事の最後までしらふでいるように言われる。「寄港先の食事会では隣席は必ず招いた側の誰か、ないし現地の招待客だ。貴婦人のこともある。料理は間を置いて出てくる。その間はお喋りをする。だから普段から話題を用意しろ。本を読み、自分が何者であるか説明できるように、日本がどんな国であるか話せるように」 第67回 練習艦隊 8 最後に教官が問うた。「客船などでは食事の際、卓の上の白い布に如雨露で水を撒くことがあるがなぜか?」 揺れる時、皿や食器が滑って床に落ちるのを防ぐためだという。 シンガポールから出港した翌日の赤道祭は無礼講で大騒ぎ。当直士官が赤道の神に扮し、司令官に大きなはりぼての赤道の鍵を授けた。これで以降の南下が許される。 仮装行列や相撲大会や演芸会は酒も入り、翌日の授業でもお祭り気分で、教官が余談をする。 今は赤道直下だから暑いが、これから南へ行くにつれて涼しくなる。五月末の豪州は日本で言えば十一月の末。寄港地のフリーマントルは日本なら熊本くらい。その初冬が待つと思って我慢しろ。それからはジャワ海を東に進んでフロレス海に入り、ロンボク海峡を抜けてインド洋に出るが、ここは国際海峡で、蘭領東インドがこれを領しているが、慣例によってここを通過する艦船を止めることはしない。 国際海峡は世界に何か所もあり、日本では津軽海峡がそれだという。勉強すべきことは多い。 第68回 練習艦隊 9 十日ほど後、「阿蘇」と「宗谷」はオーストラリアのフリーマントルに入港した。 面積は日本の二十倍で、艦隊はここから東海岸の諸都市に行くが、南岸を回ってその間はほぼ一千八百海里ある。東京からマニラまでより遠い。 ここはわたしたちにとって最初の白人の国だった。道行く人々がまず大きく、色が白い。髪の色はさまざまだが、顔つきは西洋人で、我々と似ているところは何もない。紅毛碧眼を絵に描いたような人とすれ違う。女人やはり大きくて白くて、アジアの民に比べれば堂々と自信に満ちているように見え、わたしたちに対してはどこか冷ややかで対応がそっけない。 こちらは候補生の正装でいるから一応の敬意は払われるが、それ以上ではない。 港町というのは来訪者に対して温かいものだ。長崎が正にそうで、香港でもシンガポールでも歓迎された。 豪州の英語は訛りがきついのが、ロンドンの下町の言葉がそのまま入っているのだと言う。 この国を開いたのは主に流刑囚であり、この人たちはその子孫である。広い国土なのにアジアからの移民を入れない。容認されるのは欧州からの人ばかりで、白豪主義と呼ぶそうだ。 第69回 練習艦隊 10 フリーマントルを出港して8日、メルボルンに着いた。一千八百海里は遠い。 そしてここからタスマニア島のホバートという港へ。 ここで加来とMを動物園に誘った。 豪州よりさらにタスマニアは珍しいものがいるだろうと思っていたら檻の中に獰猛な顔のものがいた。タスマニア・デビルだ。 肉食だがカンガルーのように腹の袋で子を育てる。この動物がいちばん強いのだとすると、かわいいものだ。 シドニーで催される「アットホーム」は官吏や市民など数百名を招いて、演芸や模擬店、相撲や柔道などの競技でもてなし、大騒ぎだったと聞いたが、同じ日、わたしたち候補生は「ブルーマウンテン」に招待されていた。 深い森や清流、滝、それに奇岩などからなる景勝地である。三姉妹と呼ばれる岩の塔が三基きちんと並んでいる。伝説によるとそれぞれに他の部族に好きな男を得たが、掟が結婚を許さないので、相手の男たちと戦いになり、酋長は三姉妹を岩に変えた。 第70回 練習艦隊11 シドニー市は艦隊の乗組員全員に市電、動物園、映画館が無料になる切符を配布してくれたので、市内至るところに士官、下士官、兵があふれた。さらにはローヤル・ネーバル・ハウスというところへの宿泊を全員が体験した。 粋なはからい。親善とはこういうことだ。 豪州最後の寄港地ブリスベンを出た翌日、特別授業での教官の話はこうだった。「シドニーの民には日本は若き紳士の国であり、国力があるという印象を持ってもらえた。だが海戦を意図しないままに軍艦を送り出すのがすべて親善というわけではない。軍艦は一個の武力であり、威嚇の効果がある。帰路で内南洋の島々に寄るが、そこは大戦前まではドイツ領だったが、ドイツ人の行政官は小人数で土民の反抗を抑えきれなかった。そこで東洋巡洋艦隊の装甲巡洋艦などを南洋の島々に派遣して射撃訓練も見せつけた。土民を畏怖させるためだが、土民は強制労働に反対して蜂起した。艦砲射撃も山に入った匪賊には効果がない。軍艦を運用するのは容易ではない」 71回 練習艦隊12 豪州最後の寄港地はブリスベンで、その次がニューブリテン島の港町ラバウル。山本五十六が飛び立って帰らなかったここは、今(1947年)は日本軍の拠点としてみな知っているが、そのころ豪州の占領下にあったその地の名を、候補生たちは聞いたことがなかった。 寒村だったラバウルで二日間過ごして出港し、トラック島に錨を降ろしたが、ここは島ではなく、環礁である。 珊瑚虫と呼ばれる生物の骨格が火山島の周囲に育ち、やがて島は沈降して珊瑚の環が残ったものだが、その環の中にいくつもの島が点在する。練習艦隊が行った時は日本の支配下にあって、春島、夏島、秋島、冬島、日曜島、月曜島などと日本語の地名がついていた。 やがてここは連合艦隊の泊地となり「大和」は長く滞在し、戦艦対戦艦で戦う機会を待っているうちに時が過ぎた。勝敗は戦艦ではなく航空機が決したのだが、そういうことを三十年前の候補生たちは何も知らなかった。 72回 練習艦隊13 大正四年八月、練習艦隊は横須賀に帰投。その四日後戦艦「敷島」に配属された。この艦は排水量は「阿蘇」の倍近くあり、十年前の日露戦争で活躍した艦だが、今はもう古くて時代遅れになっていたので、少尉候補生の訓練にはちょうど良かったらしい。 帰郷がかなったのは年末で、長崎に着いたのは十二月の二十八日。まず牛島牧師の教会に行く。 喜んで迎えてくださり、祈祷書の「航海無難のため」を唱えて頂いた。 その晩は牧師館奥様の手料理をご馳走になり、三人の子どもたちに歓待されて、せがまれて土産話をし、豪州で買った、コアラとカンガルーとタスマニア・デビルの絵ハガキを渡した。 73回 練習艦隊14 牛島家に一泊して翌日の朝、少尉になったことを先生に報告した。 先生は喜んだでくれた一方、わたしの信仰心と職業がどこかでぶつかる時がないか、と危惧した。 兄は父の仕事を手伝い、妹トヨは聖使女学院で元気にしていること、トヨが伝道師をめざすきっかけは牛島先生の娘二人(前妻との娘と現在の妻の連れ子)がプール女学校に進学したことだったと先生に話した。 そこから佐世保の実家に向かう。 家には父母とトヨといとこのチヨがいた。話がはずむ。美貌の妹トヨは勉強している、と答え、チヨは首席で卒業した、と答える。主席の多い一族だ。 74回 練習艦隊15 翌朝、博多の実家に帰るというチヨを駅まで送っていった。 軍装を身に付け、護衛すると言うとチヨは嬉しそうだった。 列車を待つ間、チヨに香港土産の媽祖(まそ)を渡した。しばらく話をしていたが、突然チヨは顔を赤らめながら、親たちが我々を結婚させたいと思っていると私に告げた。 幼なじみの従兄妹同士で、歳の差も五歳ほど、どちらもいい学校を出ていて仲がよく、家系内の縁組みが多い一族。 わたしは兄さんが好きだし、そうなったら嬉しい、というチヨにこっちの胸も温かくなる。 チヨは、船に乗ったらずっと帰ってこないので寂しいかもしれない、とためらう気持ちも打ち明けてくれた。 気持ちはわかった。わたしは、少尉風情では結婚はできないので、お互い待とう、と言ったのだが、あれは、二人だけの条件付きの、婚約だったのかもしれない。 75回 練習艦隊16 戦艦「敷島」から一回り大きい「安芸」に移動になってからは、艦長の方針らしく、天測の訓練が始まった。 「艦船にとって最も大事なのがおのれの位置である。これなくして目的の港に行き着くことはできない」 わたしたちは計時・記録担当の相棒と二人一組で六分儀を持って甲板に出、太陽や恒星、月の最高高度とその時刻、恒星、月などの高度を測り時刻を記録し、得られた数値を海図室で天測暦と突き合わせて計算して自艦の位置を算出する。 緯度の観測は難しくないが、経度を出すには精確な時計が必要だ。そのための精密時計、クロノメーターがイギリスで発明されたのは十八世紀。 わたしたちはさまざまな条件のもとに天測を重ねた。 そのうちにわたしの中に、これらの作業の元となっている天測暦はどこで誰が準備しているのかという興味が湧いた。 表紙にはただ「水路部」とある。海軍の部門の一つなのか? 第76回 練習艦隊17 若い海軍士官は、艦から艦を渡り歩く。1917年9月、私はそれまでの「安芸」よりずっと古く排水量も半分ほどの装甲巡洋艦「浅間」に移った。 この艦は練習用に使われ、規律が厳しいことで知られていたが、わたしには居心地がよく、半年後、中尉に昇格していた私は二度目の練習航海でアメリカ西海岸に行った。 上官の話によると、この艦は三年ほど前、アメリカ西海岸で、英国、カナダ、豪州の艦隊と共同でドイツ東洋艦隊による通商破壊に備えて哨戒任務に就いていた時、メキシコのマグダレナ湾で暗礁に乗り上げて座礁し、数か月後、日本からの工作船「関東丸」に救われて横須賀に戻った。 この途中、アメリカの新聞が湾内に集結した「出雲」、「常磐」、「千歳」、「浅間」などの写真を掲載し、煽情的な記事を掲載した。「日本は『浅間』を故意に座礁させて、湾を機雷で封鎖し、四千名の水兵を上陸させて基地を建設している。アメリカ攻撃の橋頭堡では?」 この記事は新聞を売るためと、背後には日米の離間を図るドイツの陰謀があったとも伝えられているが、この騒ぎから三年後、わたしを乗せた練習艦隊はサンフランシスコで盛大な歓迎を受けた。 第77回 練習艦隊18 海軍兵学校第四十五期卒業生を乗せた練習艦隊は旗艦の「磐手」と「浅間」の二艦から成り、司令官鈴木貫太郎中将は「磐手」わたしは「浅間」に乗り、大正七年(一九一八年)横須賀を出港する。最初の予定寄港地のサンフランシスコ(桑港)は緯線に沿って東の先にあり、横須賀の緯度とほとんど変わらない。 途中、右舷側には内南洋の島々があり、ミッドウェーがあり、ハワイ諸島があるが遠い。左舷側にはカムチャツカ半島やアラスカがあるはずだが更に遠い。来る日も来る日もただ青い海原ばかりの航海で、わたしたちは太平洋のあきれるばかりの広さを思い知った。 十ノットの巡航速度で大圏距離四千四百七十八海里を渡るには二十日かかる。 太平洋は太古に月が地球から分離していった跡だという説を聞いたが、後の思いで言えば、「太平洋」はまずもって平和の海、平穏の海。 マゼランはまずそれを思ったのだが、わたしたちはそこを戦争の海に変えた。 第78回 練習艦隊19 サンフランシスコに投錨した際、山の中の公園の美しい景観を目的にする遊山に招待され、その晩には市の商工会議所が主催する晩餐会に招かれた。 何か話さなければならないが、自分はつたない英語しか操れないので、もっぱら質問だけすることにした。「サンフランシスコというのは聖者の名だと聞いたのですが、どういう方なのですか?」 スペイン語で聖フランシスの意で、貧しいまま生きることを大事にし小鳥と話すことができた聖者で、カトリックと聖公会では大事な人物だ、と左側の婦人が答えてくれた。 その者の名を聞いたことがあったが、わたしは自分が聖公会の信徒であることを婦人に言わなかった。海軍の同輩に配慮したのだが、そのことを少し恥じた。 第79回 練習艦隊20 この航海で光栄なことに艦隊司令官で「磐手」に乗艦している鈴木貫太郎さんとお目にかかれた。 ある日の晩餐会のスピーチは今振り返っても正鵠を射ている。 日米戦争はやってはならぬ。日本の艦隊は敗れても降伏しない。もしこれを占領するとしたら、アメリカは6千万人を失って日本一国を取ることになるし、日本が勝ったとしても、アメリカは降伏しないしワシントン、ニューヨークまで行くほどの戦力はない。兵力を消耗するだけで、両国になんの益もなく第三国が益するだけ。 日本の艦隊は「敗れても降伏しない。陸上であくまで闘う」という気力を持たなかったがこれは幸いだった。 戦争の帰趨を昭和16年当時の日本国民は知らなかったのだ。 第80回 練習艦隊21 わたしは鈴木貫太郎さんを結んでいるものの第一は米国ならびに中米への練習航海。 第二は軍艦「春日」。 練習艦隊の時には名スピーチを聞いただけだったが、昭和八年のローソップ島への日食観測に行く準備に追われていた時に、天皇陛下の侍従長になっていた鈴木さんから会いたいという連絡が入った。 海軍兵学校では十四期で日清・日露の戦役の経験者の鈴木さんに対し、こちらは四十二期。 場所は飯倉の水交社で、イギリス式に、日曜日の午後のハイ・ティーの時間。 海軍大学校から東大に行った変わり者はきみか、これから日食観測へ乗っていく予定の「春日」について話がしたい、と言われた。 「老人の昔話と思って聞いてくれ」 第81回 練習艦隊22 鈴木さんの話が始まる。 イタリアが自国のために造った艦二機を、日本が買い取ることになった時、私はドイツに留学していた。1903年、私が33.4歳の頃、いきなりイタリアで艦を受け取って日本へ回航せよ、と海軍大佐から伝えられた。ジェノアへ行くと、艦は艤装の最中だったがすぐに出港せよ、との命で『春日』『日進』と命名してイギリスやイタリアの技師たちを乗せたまま解纜。 ところがその動きをロシアは察知。我々を待ち伏せするため、地中海にいた軍艦をスエズ運河まで送り出した。 この軍艦の調達が日露開戦の理由になったというが、きっかけを探していたのだ。 わたしたちは海戦も覚悟で進んだが、何とマルタ島に停泊していた英国海軍の装甲巡洋艦が助けに現れ、我々を先導してくれた。 先にロシア、続いて英艦、そして我らが続く。 第82回 練習艦隊23 スエズ運河でのかけひきを鈴木さんが語る。 運河入り口で載炭する予定の日本とロシアの艦だったが、英国が気をきかせて日本が優先だと言ってくれて、ロシア艦の一部を残して、進むことができた。そこを抜けてアラビア半島南端で技師や職工を降ろしてインド洋に入った時はロシア艦はあきらめて帰っていった。そして英艦から連絡が入った。日露の交渉は切迫していて開戦は免れない。よき航海を祈る。(日英同盟が機能している時期だった) 余談だがパナマ運河は狭く、32,3メートル。そこを通るために幅のある艦を造れないが、後に日本の戦艦「大和」と「武蔵」はそれより幅が広かった。 長い航海では乗組員がどんどん変わり、降りた地で補充するので、八か国の人間が乗務したこともあった。そして2月26日、横須賀に入港したが、「日進」より後で、すでに開戦していた。きっかけは我々がシンガポールを出たことだった。 第83回 練習艦隊24 練習航海に話を戻そう。サンフランシスコを出た艦隊はロスアンゼルスに入港。ここでも様々な歓迎行事より物見遊山が楽しい。 アメリカでの移動はもっぱら自動車で、トラックの荷台に坐り込んで運ばれるのをみんな喜んだ。 駝鳥公園で、オレンジを飲み込む鳥をみたり、ユニバーサル会社の見学では、市街では見かけない美貌の映画俳優をみた。 最も嬉しかったのはウィルソン山の天文台の見学だ。前年に完成した直径二・五メートルの一枚ガラスの鏡を用いた巨大な反射望遠鏡の巨大な装置を一点の星に向ける仕掛けに感心し、天文学者としてのわたしの生涯の里程標の一つとなった。 ロスアンゼルスは「天使の町」という意味だが、ここでは天使には会わず、メキシコのマンザニヨ、アカプルコという小さな港に上陸したときに、天使がたくさんいるように感じた。 メキシコは土の匂いのする、カトリックの国である。 第84回 練習艦隊25 メキシコの西岸に沿って南下し、北米と南米を結ぶ細い地峡のパナマへ行く。 スエズ運河を造るためには両岸が砂漠だから平坦に掘り進めれば良かったが、パナマは途中に分水嶺があり東西の水位が違うので、船を持ち上げ下ろさなくてはならない。そのために閘門(ロック)という仕掛けが応用された。今から4年前、1914年に開通したものだ。 細長い箱様のものを作り、その前後の扉を開け閉めして水位を調整する。船は持ち上がったところで前に進み出て、水位差のある両地点を行き来できるようにしたもので、ガツンという人工湖に入るまで閘門は三段階あって、水の供給が必要だがパナマには十分にあった。これによりニューヨーク、サンフランシスコ間の海里は4割までに縮まった。 私は候補生向けの説明会でこの仕組みについて、面白く授業を行ったものだ。 第85回 練習艦隊26 練習艦隊が少尉候補生らの留守宅に送った「家庭通信」ではパナマの当時の様子を伝えている。 バルボアから三海里の市街に人口6万。西人、黒奴、混血種、英人、米人、支那人などの多種の人種を擁し、雑然とした市街には平屋石造りの家屋が多く、日光を防いで住みやすい。運河地帯は米官憲の努力で伝染病も少なくなり、衛生状態よく、熱帯植物が繁茂して陰を作っている。大々的な商売はなく、パナマ帽子屋が多い。 巨大な閘門を見学して、わたしは工学の力に思いを馳せた。 工兵の技術で普段から準備して緊急事態を回避できるのだ。 ピラミッドの造建が、国力を示して戦争を抑止する目的だった、との教官の言葉に驚いた。 アメリカがこの航海で我々に見せていたのは、その国力だったのだ。海戦の結果は造船所で決まり、それ以前に設計室で決まるのかもしれない。 第86回 練習艦隊27 パナマ運河見学の際、瓜生外吉さんのことを聞いた。 加賀で生まれた瓜生は私より35歳上。海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)からアメリカへ留学し、アナポリスの海軍兵学校を卒業した。 江田島は日本国籍を持つことが条件のため外国人留学生はいなかったから、アメリカという国のの度量を感じる。 帰国後司令官として日露戦争に参加し勲功を残し、男爵となって56歳で予備役となり、パナマ運河の開通記念博覧会に日本代表の一人として参列した。 わたしが興味を持ったのは、瓜生さんが東京第一長老教会の信徒だったからだ。 教会員となった翌年アメリカへわたり、帰国してからは順調に階級を上り、司令官として日露戦争に参加し勲功を残した。 つまりアメリカ建国を支えた清教徒の信仰に入り、アメリカの中枢で青春を過ごし、海軍軍人の資格を得て帰国して実戦を体験している。 もしもお目にかかれたら、信仰のこと、軍人としての責務のこと、アメリカへの思いなど聞いてみたかった。 第87回 練習艦隊28 牛島先生にはパナマから土産話を楽しみにしてほしい、と絵はがきを送った。 次のハワイまでは21日かかったが、この地は日本からの移民も多く、ここでもまたまた歓迎された。 パイナップル畑の見学をした。鳳梨と漢字で書く奇妙な食べ物だが、砂糖汁で缶詰にするという。砂糖はこの島の主産業だ。よい匂いだが生では味は今一つ。 ここで日系の案内の老人と言葉を交わすことになった。「アメリカに気をつけなされよ」老人は言う。このハワイはもともと独立した王国だったものをアメリカが武力で併合し、最後の女王は寂しく去年亡くなったのだという。大国が小国を取り込むことはどの国でも起こっている。日本と琉球もだ。 第88回 練習艦隊29 話は続く。ハワイの最後の女王の兄が王だったころ、日本の天皇に姪を嫁にやってもよい、と申し入れに行ったというが日本は余裕がない、と断ったという。ハワイ王国はアメリカに対抗するため海を隔てた隣国である日本との絆を作りたかったのだ。 さて我々がホノルルに入港する前、「磐手」と「浅間」が載炭のために真珠港(真珠湾)に入った際のことだ。載炭は大変な仕事だと覚悟していたら、起重機から石炭は途切れなく艦に降り注いだ。ときおり庫内の石炭を均等に延べなくてはならないが、重い荷を担いでタラップを上る必要がないのだ。 車の数、パナマ運河の威容、機械力など、アメリカの国力に驚かされるが、またそれは、アメリカから見させられているのだとも思った。 第89回 練習艦隊30 戦争が終わった今でも真珠湾という地名は我々日本人に一種の感慨を呼ぶが、昭和十六年の大勝利に国は沸き立った。 しかしそれが頂点で真珠のきらめきは一瞬だった。 わたしたちが訪れた1918年(大正七年)当時、日本人はハワイについて何を知っていただろう? 今海軍省が留守家族に随時送った「家庭通信」を懐かしく読み返す。 ・ 平穏なる二旬の航海を終へ五月二十一日の早朝秀麗なる「ハワイ」群島中の一なる「マウイ」島の「ハレアカラ」の山を望み申候、高さ一万三十二呎の同山は裾長く西に延びて「プウクネイ」の峻峰に連り海を隔てゝ「モロカイ」島の断崖と其(そ)の絶景を争ひをり候…… ・……今や殷賑の洋風市街をなし、在住者の国籍二十七箇国現時の人口六万五千布哇(ハワイ)准州政庁の所在地にして主要街を「キング」と称し電車は縦横に通じ道路平坦砥の如く二千余台の自働車また市人の乗用に供せられ居候、本邦領事館を初め殆ど世界各国の領事館またこゝに存在し邦人の在留一万五千、商業に漁業に努力発展のさま心づよく存候、水族館、「ワイキキ」公園、「オアフ」大学、「スヤスパリー」、「タンタラス」等杖を曳(ひ)くの地も多く有之(これあり)…… ・……本島の外群島の主なるものを挙ぐれば布哇、馬哇(マウイ)、「モロカイ」、「ラナイ」、加哇(カウアイ)、「ニイハウ」の六島、北緯約二十度に散点しいづれも熱帯の圏内に有之候へども洋島の常として季節に依る気温の差、殆どなく盛夏八十五度を出づる事なく冬季も五十度に達するは稀なりとの事に候、随て四季花の絶ゆる事なく加哇の如きは花園島の称も有之程…… 2020年11月 《わたしは練習航海を2回経験した。海軍兵学校を卒業後間もない1915年、少尉候補生として「阿蘇」で豪州方面へ。18年は指導側の士官として「浅間」に乗り米国西海岸方面に。敗戦を経て、当時目にした米国の力を思うのだった。》 第90回 第七戒 1 大正6年7月、皇太子殿下が山陰に行啓されることになり、わたしが乗った「安芸」は供奉艦となる名誉を得た。殿下は12日に神戸で退艦されたが、境の町にさしかかりトヨのことを思い出した。トヨがここで伝道師として働いていたからだ。 体を壊したという知らせを受けてはいたが、詳細がわからないまま、1週間の休暇に久しぶりに家に帰ろうと思っていた矢先に電報が来た。 嬉野の大村屋に急いで来いというが、ふしぎなことにいとこのミネとチヨ、トヨの連名であった。 第91回 第七戒 2 大村屋で顔を出したのはまずチヨで続いてミ子が顔を出したがトヨの姿はない。 二人は無理に明るくふるまう感じで、わたしに湯に行くようにうながす。湯から出ると二人がかしこまって話し出した。 ーーー困ったことになった。トヨさんは懐妊していますが事故でも事件でも、いたずら心でもない。人間に起こりうることだと私たちは納得しました。 驚いて言葉が出ない。 第92回 第七戒 3 呼ばれてトヨが入ってきた。怒るわたしにトヨは話し出した。 わたしはモーセの第七戒…汝、姦淫するなかれを破って自分の意思でことを行いました。 米子から堺の教会に移り、女は牧師にはなれないのでただ伝道に励んだが、そのうち肋膜を患った。佐世保に戻ると親たちは別府温泉での療治をすすめてくれたので、自炊しながらその地で祈り日々を過ごしていると、徐々に身体は恢復してきて話す相手もできた。ここで伝道したいところだが、まだ時期ではない、と我慢していると、大阪から来た男性に出会った。銀行勤めをしていたが、胸を壊してきた、という。大阪はわたしが過ごしたプール女学校があったところでもあり、その人と自然と言葉を交わすようになった。 第93回 第七戒 4 トヨは続ける。 その大阪の人を特別好ましいと思ったわけではないが、ある日その人が自分の部屋の前の廊下に座り込んで号泣していた。 問うと電報を差し出したが、それにはイサオがエキリで死んだので帰ってこい、という旨が書かれている。 わたしは部屋に呼んでその人の嗚咽と涙が鎮まるまで手を握ってあげた。 すすり泣きのあと、功という息子は4歳で可愛いさかり。自分が肺病だったので、移したくないために療治のためにここに来た、ということを切れ切れに話しだした。 どうしてあげることもできず、肩を抱き、耳元で嘆きの声を聞く。その人の目は虚空の息子の影を追っているようで…。 第94回 第七戒 5 長い間抱き合っていると、その人の手の動きが少し変わっていたが、わたしは自分の体の温かみを差し上げてもいいかもしれない、と思った。子供を失った苦悩の奥にわたしの身体の光明を見出そうとしているのだ。主の言われる愛ではないが、身を捧げよう。しばらくして彼は小さな声で「ありがとう」と部屋を出ていく。わたしは激しい感情とふるまいを鎮めるために湯につかる。 翌朝、姓しか知らないその人はわたしと目を合わせず宿を出て大阪に帰り、わたしも佐世保に帰った。 やがて受胎に気づいたがそれは運命。あの人を追うつもりもない。父母には言わずに牛島先生にすべてを話すと「産みなさい」と一言だけ言われた。 第95回 第七戒 6 キリスト教においては、第七の「姦淫することなかれ」より第六の「殺すなかれ」の方が重いのだから、子を闇に葬ってはならないのだ。 トヨとチヨとミ子が私の前に並んだ。 話はわかった、と私が言うと、チヨは、相談されて姉と決めたことなので、自分たちみなが担う重荷なのだと言った。しばらく一人で考えたかったが整理ができない。時間も迫っている。これは信仰の難問であると同時に世俗の難問である。 世間は認めないだろう。 主イエスの元に女が連行されてきたとき、罪なき者は石を投げうて、と主に言われ、人々は恥じ入って立ち去ったが今人は恥じ入らずに石を持つだろう。 イエスはすべて色情を懐きて女を見るものは既に心のうちで姦淫したるなり、とも言われ、わたしは自分が石を持つ資格がないことを知っている。 第96回 第七戒 7 神は「生めよ増殖よ地に満てよ」と言われたが、あの行いを経なければ子は産めない。あれは促しであり同時に呪いだ。人も獣も否応なく追い立てられる。神は子孫繁栄のためだと知らない獣を促すために本能の中に快楽を組み込んだ。 人間は一年中可能なので自由意志があり、そのために姦淫を戒める第七戒をモーセから神が賜った。 決断には責任が伴うが罪と承知ならばしてもいいのか。魂への責任はどうなるのか。「もし右の目なんじを躓かせば、くじり出して棄てよ」が実行できるか? わたしはトヨの哀れみの思いを信じるが世間はそこに快楽の力が働いたと邪推するだろう。方策を立てなければならない。 霊の世界では「産みなさい」と結論が出ている。受胎告知の天使は現れたのだが、世間は他者を難じ、鞭打つ。 わたしたち人間はイエスの教えにしたがおうとするが、それも自由意志が前提なのだ。選ばなければならない。 第97回 第七戒 8 人の弱さの例は旧約聖書にいくらでもある。「生めよ増殖よ地に満てよ」という言葉は乱倫につながり、怒った神は大洪水を起こし、ノアの家族と動物たちだけが生き延びた。 その後、アブラムという信仰篤い人が現れ、飢饉を逃れてエジプトに行った際、妻のサライを妹と偽ったが、サライが美貌でファラオはこの女を妻の一人とした…これは姦淫幇助の罪にならないか。 このためにエジプトは災厄に見舞われ、アブラムはエジプトを追われたカナンに戻ったが、アブラムは栄え、甥のロトがソドムの町に住み着いた。この町と隣のゴモラの倫理は乱れに乱れていたので、神は二つの町を滅ぼすと決めてロトに警告を送った。 彼は家族を連れて町を出たが、決して振り向いてはならぬと言われていたのに妻は後ろを見てしまい、塩の柱と化した。 妻を失ったロトは娘二人と山の中に暮らし、娘たちは滅びを防ぐため、父親を酔わせて父と結びそれぞれに男子を産んだ…これもまた姦淫ではないか。 老いたアブラムに継嗣がなかったので、妻は側女にイシュマエルという男子を誕生させたが、その後サライは身ごもり、イシュマルは廃嫡。 …わたしは旧約聖書は倫理の本ではなく、ユダヤの民の歴史の本だと思っている。主イエスはその時々、旧約から話を引いて説教をしているのだが、人間はあの行為の誘惑にかくも弱いものであるのか。 旧約聖書の乱倫の話ではダビデの恋はもっと弁解の余地がない モーセが神と十戒を交わしてから何百年も後なのに。 羊飼いのダビデはイスラエルの王となるだろうと予言され、王サウルを慰めるために琴を弾きに行った。戦いでは大男ゴリアテを倒し、首を持ち帰り王の娘を妻として、やがて王になった。 ある日、水浴しているバテシバを覗き見て、夫の戦士ウリヤのが遠征している間に共寝。バテシバ懐妊。ダビデは自分の行いを隠そうと、バテシバの元にウリヤを呼びもどして、子の父親にしように画策しようとしたが、ウリヤは妻と寝ずに戦場に帰る。 窮したダビデはウリヤを戦死させ、バテシバと結婚。その二人目の子が名君ソロモンとなった。 これは、第六(汝殺すなかれ)、第七(汝姦淫するなかれ)、それに第十(汝その隣人の家を貪るなかれ又汝の隣人の妻およびその僕婢牛驢馬ならびに凡て汝の隣人の所有を貪るなかれ)に違反する。後に預言者ナタンが彼を激しく責めたのは当然のことだった。 第99回 第七戒 10 旧約の時代をさまよい逃避していたが、目前の問題に戻らなければならない。 トヨの行為は、おそらく慈悲深き主イエスは諾われるだろうと思いつつ、小さな疑問が生じた。トヨは初めてではないから応じられたのではないか? とすれば第七戒はすでに破られている。 そこを問おうとするわたしの心に主の言葉が立ちはだかる。「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」。 森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」という、哲学者の性欲をめぐる回想の部分、本人の体験にまつわるあたりは当時17歳だったわたしは、自分と同じ年頃になるまでのところを共感して読んだものだ。 第100回 第七戒 11 「ヰタ・セクスアリス」という話には自分が特別変ではない、と思えるような意義があると思った。 学課にはないが、わたしは人生が「性欲」に包囲されていることに気づいていた。噂話や、巷間で見聞きしたこと、何よりも自分の身体の変化を通じて。 犬の交尾を見て大人が下卑た教えをくれたり、女の子と体を比べあったり、夜、隣の女中が物置の影で誰かと激しく身体を動かしている最中にでくわしたり。 長じたら夜中に自分が快楽の魔の手に落ち、手の動きを止められずにいたことや… 第101回 第七戒 12 鎮西学院の夏休み、二日市の秋吉の家に義理の姉たち、ハルさんとクラさんの顔を見に行くのも楽しいかと思った。 二人ともわたしより数歳ほど年上でいまだに結婚していない。秋吉の家は二日市駅のすぐ前で肥前屋という旅館を営んでいる。 着くと、先に電報を打っていたのに養母が今日はお客さんでいっぱいで間が悪いという。 途方に暮れていると、水城のツルなら気安く泊めてもらえるから一泊で帰ってこい、というので言われるままに白村江からの歴史のある、今は静か小さな町の、寡婦のやっている宿を探し当てた。 大きゅうなったねえ、と迎えてくれたのは記憶より小柄な人で、快く招じ入れてくれた。夕食も品数が多く、すべてが滑らかに進む。 第102回 第七戒 13 夕食のあと、手伝いの者が帰ると、ツルさんがふとんの敷かれた二階の部屋に案内してくれた。昼に干しておいてくれた布団の匂いが気持ちよかったが、ツルさんが降りていったあと、身体の中で何かがざわめいて眠れない。その正体はツルさんの存在だった。ツルさんから発散されていた体熱に自分の身体が反応しているのだ。ツルさんの着ているものは普段着のこざっぱりした地味なものだったのに、何かが匂った。 眠れない気持ちをはぐらかし、ウツラウツラしたとき階段をそっと上がってくる足音がした。 第103 回 第七戒 14 闇の中で誰かが布団の脇に座る気配、シャボンの匂いがした。 寝たか? と問われて「いえ」と答えると、女を知らないのなら自分で練習しろ、という。 ツルさんの言葉とツルさんの身体がそこにあった。すぐに手を伸ばした。中へ導かれたわたしは焦らずゆっくり動くよう教えられ、やがて本流は教えられたままの腹の平原に溢れた。 終わって二人、仰向けに並んで天井を見ていると、ツルさんから、おめでとうこれで男やね、と言われた。「あんたは様子のよかけんこの先ずっと女子に好かれやろう。ばってがそれでも最初が私だったことば忘れんどいて」 第104 回 第七戒 15 ツルさんは私の手を体に導きながら言う。気持ちが良いから罠に落ちて身を誤る男が多い。生娘や人妻に手を出すと危ない。商売女にはまるのもダメ。つまり寡婦がいちばん。若いのだからもう一度しなさい。 翌朝はまた来なさい、と送り出された。 二日市に戻ると養母のロクさんが含み笑いをしていたので、この人の采配だったことがわかった。「生めよ増殖せよ地に満てよ」の神の命令に従い人間にはついてまわることだが、乱脈を避けるために第七戒がある。しかし、それを守れない強い促しが体の奥から湧いて出てしまう。 しかしなぜツルさんはわたしから溢れるものを腹の上に注いだのだろう。「創世記」の一説を思い出した。―― ユダの長子エル、ヱホバの前に悪をなしたればヱホバこれを死なしめ給(たま)ふ 茲(ここ)にユダ、オナンにいひけるは汝(なんぢ)の兄の妻の所にいりて之(これ)をめとり汝の兄をして子(たね)をえせしめよ オナンその子(たね)の己のものとならざるを知りたれば兄の妻の所にいりし時兄に子(こ)をえせしめざらんために地に洩(も)らしたり 第105回 第七戒 16 わたしはその後も何度かツルさんのところへ行った。学校の休みの日、養家に顔を出す風にしながら乗り越してツルさんの所へいってしまう。 行くたびに温かく迎え入れられたが、ある時のこと。玄関先に立つと、今日は間が悪い、と小声で言われた。同時に奥から「誰や?」という男の声。「お使いの子」と応じられて、私のツルさんへの訪問は終わった。 それだけではなく、兵学校の生徒であり士官である私にはそんな機会はたくさんあり拒まなかった。第七戒を犯したのはわたしも同じだ。 トヨには、あの出来事が最初だったのかと問わないことにした。知らない方がいい。 夕食時に先のことを四人で話し合った。 実際にどうするか。里子に出そうにもトヨは自分で育てたいらしい。そして父母はまだ何も知らないという。 第106回 第七戒 17 ヨセフは婚約者のマリアが精霊によって懐妊したことを知り離縁しようと思うが、天使からその子は民を罪より救う、と告げられ、マリアを妻として迎え、出産まで体に触れずにイエスを育てた。 が、そんな先例を持ち出してもしょうがない。世間はトヨの子を過ちの子とみなすだろう。 わたしは、ある案を女たちに伝え、トヨと上京することにした。 その深夜、チヨがわたしの部屋に入ってきてささやいた。 自分は子どもの頃から利雄の嫁になりたいと思ってきたが、女の身には何が起こるかわからない、とトヨの例で知った。だから今ここで女にしてもらえれば、最初の男は利雄兄さんだと思って胸をはって生きていける、という。 こうして5年後に妻になるチヨだが、この夜2人だけの婚約の儀式をした。 第107回 第七戒 18 翌朝早く、わたしとトヨは肥前電鉄と祐徳軌道を乗り継いで武雄駅に向かい、ここから長崎線の汽車に乗る。 軍人として細かくメモを付けていたからこの時の旅についても、詳細にわかる。 武雄駅発7:54amーー鳥栖9:34ーー博多10:58ーー門司13:57--(連絡船)--下関着14:25ーー広島21:34--ー京都(翌日)8:30--東京着20:30 計36時間36分。 妹は悪びれたところはなく、食堂車でも駅弁でもよく食べた。女は弱いが母は強い。トヨは聖母マリアのように母を自覚しているのだろう。 だが私はひたすら時間が気になる。東京に着いたら翌日の昼には決着をつけて、その夜には自分の宿舎に戻らなければならない。 もう一つの期限は婚姻を進めて、早産として認めさせなければならない。 第108回 第七戒 19 広島からは寝台列車に乗った。トヨはすぐに眠り込んだようだが、私は寝付けないままに、トヨを責められない自分自身の姦淫の罪を思った。 人があのことを成すのは産んで育て地を満たすためである。快楽を得ながらも妊娠や出産や育児という責務を回避することを覚えたのは、イブが蛇の誘惑に負けて狡猾になったためだ。婚姻の秘蹟なくしてことを行うのは姦淫であり罪なのだ。 トヨに責務回避の自覚がなかったにせよ、姦淫に違いなく、それでも産んで育てれば罪は赦されるのではないか。 トヨが人生において必要としているのは、天使の言葉を信じてマリアを受け入れたヨセフである。 第109回 第七戒 20 昨日はせっかく二日市の駅に停まったのに、「二十四名社」に挨拶できなかったことについてトヨと話す。 駅から遠くない所にある八幡宮を支えて守り立てるために氏子24名が興したもので、うちの家系では吉広と秋吉が社員で、秋吉は父、徳三郎が代表になっている 子供の頃は二日市に行くとよくそこへ行き、伯父からお賽銭の二銭をせしめ、一銭は飴玉を買ったものだ。 第八戒(盗むなかれ)を破ることになる、とトヨと話したが、問題は秋吉の父が亡くなった際だ。当主の私が正式の社員になる。 それは、エホバ以外の神を崇めてはならない、という第一戒に反する。 主イエスは心が広い。見逃してもらえないかな、とトヨに問うと私ならお参りはしないという。 そうだろう。妹は聖公会の伝道師だ。 第110回 第七戒 21 わたしがこれから会う予定の男、福永末次郎はわたしの父の弟のところに来た養子で、わたしとトヨのいとこだが血はつながっていない。 彼にトヨと結婚してもらおうと考えているが、その頼みの重さを天秤に乗せると、釣り合うのは彼のキリスト教徒としての慈悲と慈愛になるのか、俗の愛になるのか……彼は昔からトヨのことを好きだったのだ。 彼は学業に秀で福岡の名門校の修猷館から一高、東京帝国大学法科大学から今は経済学科の学生で出世の鑑。卒業までまだ2年ほどある。 第111回 第七戒 22 夜、東京駅に着き、すぐに宿をとり、翌朝トヨを置いて東大に向かった。 電報で呼び出したので、末次郎は何か急ぎの用事かと赤門前にすぐに駆けつけてくれた。 大人びて見えるがわたしより一つ下の23か24歳。これからの用件を思って、ためらうわたしを散歩に誘ってくれる。 木立の奥の池のあたりは、もと加賀の前田家の江戸屋敷だったという。雄藩で気を遣う関係の上に、前田利常の正室は徳川秀忠の娘の珠姫。 江戸屋敷に将軍の御成りもあるので、造園にも力を入れた、その中心が通称三四郎池、もともとの名を心字池という……そんな話をしてくれた 第132回 海から陸へ、空へ 14第112回 第七戒 23 末次郎に交際している人がいないか、まず確かめる。恩師の娘との縁談話もないことを確認したあと、思い切ってトヨの話をした。 懐妊していること。 その相手は不明だが、人が生きる間にはそういうことも起こり、それを切り捨てては信徒の道は歩めない。主の計らいなのだが、世間的には認められない。そんなトヨと結婚してほしい。 動揺している末次郎にさらに頼む。 普通なら里子に出すところだが、トヨが自分で育てたいと言っていて、それは主の教えにかなう。 だが、一人では不可能なことだ。無理は承知だ。結婚を考えてくれ。 第113回 第七戒 24 今晩、横須賀に戻らなければならない私だが、その前にトヨのところに末次郎を連れていく。さらにその前に末次郎の答えを聞かなければならない。 末次郎は中二のころ友人から誘われて教会へ通うようになり、今でもパブテストの信徒であり日曜日には教会へ通う。洗礼も受けたという。 だが、本当の信仰はなく、トヨとの結婚は、ただ幼なじみのトヨの苦境を救うという一点だという。 生涯の秘密を抱えることになるがトヨとの生活は楽しみであり、初めに少しの荷を負っても終生盤石な気がするらしい。 第114回 第七戒 25 末次郎を湯島の宿の玄関に待たせたまま、部屋の隅に座っていたトヨに、末次郎の気持ちを聞かせた。 会うか? と問うとうなずいたので二人を会わせた。 顔を伏せているトヨに「生まれてくる子はすべて祝福されるべきだと思う」と末次郎が言うと、トヨは伏して泣き、末次郎の手を顔に押し当てて感謝の言葉を繰り返した。 「生涯、あなたに尽くします」 「それと主に」 「それと主に」 いまだ混乱中の末次郎に段取りを聞かせる。 まず牛島先生に報告し、一緒に親たちに話しに行き、早い挙式をあげることは先生に任せるように……。 牛島先生、ミ子、チヨにはわたしから電報を打った。 フタリメヲトニナル」トシヲ たんでしょうよ。 この小説の「書き方」ではこんなふうに読める、ということです、もちろん。(というより、真実は誰にもわかりません) 第115回 第七戒 26 わたしが戦艦「安芸」から装甲巡洋艦「浅間」に移った九月、トヨからの手紙が届いた。 あのあと、もう一泊して末次郎と心ゆくまで包み隠さず、ことのなりゆきを話したこと。 末次郎は黙って飲み込んで主の計らいだと得心した。そして秘密はここだけでとどめ、井上家の両親には自分が別府温泉で強引に迫って夫婦になることを要求したことにする。両親は怒り嘆くだろうが、二人が目の前に並び牛島先生が口添えすれば、やがてそれも収まるだろう。 何より生まれてくる子には絶対に秘密にし、それから生まれる子どもは、何人でも育てよう。 第116回 第七戒 27 トヨの手紙。 私は末次郎さんを心から信頼しているが、それでも大きな荷を負って生きてゆくことになるだろう。 子が生まれれば井上家も福永家も喜ぶだろうが、その子の面立ちに我が井上の血をさがすことはできても、末次郎の特徴は何も出ない。 元々末次郎は養子ではあるが、子の実の父親の遺伝がどういうものか不安はある。その遺伝が末次郎に由来するのでは? と思う世間に末次郎自身が耐えねばならない。 私たちは自由意志を与えられ、自分の判断で生きてゆくがその途上で起こるさまざまなことを主は見ていてくださる。夫が同じ信仰を持つ身であることが嬉しい。そこに主イエスのまなざしを感じるからだ。 第117回 第七戒 28 その年の暮れの、義弟となった末次郎からの手紙を、海軍中尉になったばかりの私は、装甲巡洋艦「浅間」で受け取った。 二人は一軒の家を借り、つつがなく暮らしていて、三月半ばの出産を待っている。 ある日、「ホセア書」の中に「ヱホバ、ホセアに宣はく汝ゆきて淫行の婦人を娶り淫行の子等を取れ」とあるのを見つけて義弟は驚いたという。 まさに自分がしたことではないか、と一瞬思ったが、もちろんトヨの行為を淫行だと思っているわけではない。 少し勉強すると、エホバの言う淫行というのは、他の神を拝むこと、偶像崇拝の比喩であるらしい。 他の男と交わる=他の神にすがる、こういう者たちをも受け入れて大きな腕の中に抱け、とエホバは言われた。 トヨは初めからずっと主の抱擁の中にいて、胎内では赤子がすくすく育っている。 人は一人で生きるものではない。婚姻は大きな喜びである。(この手紙は処分してください) 第118回 第七戒 29 「浅間」で太平洋を航行していた時に、祝福の言葉とともに電報が届けられた。 三ツキ一九ヒダンシタンジヤウ」ボシケンカウ」タケヒコトメイメイ」スエジラウ 妹は末次郎のおかげで人生の危機を乗り越えることができた。名前は武彦だろう。文武の武を選んだのだろう。将来は軍人になるか、「文」方面かもしれない。聖職者とか父に倣って経国財民の道かもしれないが将来は大きく開かれている。 父母から婚姻許可を得て式を挙げたことはトヨやチヨの手紙で知った。チヨの手紙には自分たちの結婚も急ぎたい思いを感じたが、海軍軍人の階梯を経てからだ。先は遠い。 わたしは『祈祷書』の「出産のため」を読む。出産した母に対するいたわりと神の栄光がもたらされることを祈る言葉だ。 これからはトヨの信仰を末次郎が支え、子はやがて洗礼を受けることになるだろう。 2020年12月 《妹・トヨが熱心な信徒でありながら未婚のまま懐妊するという事態は、いとこの末次郎がトヨとおなかの子を引き受けて結婚することで決着した。わたしにも結婚を約束したチヨがいる。海軍将校としていかに歩むかを考えていた。》 第119回 海から陸へ、空へ1 横須賀に戻った十日後、わたしは新鋭艦「山城」の配属になった。この艦は、3万トンを超え、全長200mで上部構造物がそびえ、初日に艦内を一周するだけで丸一日かかった。士官は艦を掌握していなければならない。下士官の案内で歩き回って兵装、機関、倉庫、下士官・兵の居住区、各室の配備を記憶する。 着任が下士官や兵の場合は、勝手に歩き回って覚えなければならず、しかも迷って道を聞くとわざと嘘を教えられて戻れぬ場合もあるという。「山城」は有名な艦でお召艦にもなったが、最後は昭和19年にレイテ沖で沈んだ、とMから聞かされた。 第120回 海から陸へ、空へ 2 わたしは二十六歳の海軍中尉で、着実に知識と経験を積んでいた。 士官は一艦をすべて掌握して、砲や機関を整備し、下士官兵の訓練を行い、敵艦隊との会戦を想定してひたすら準備を積む。それゆえ海軍というのはずいぶんと特殊な社会である。男しかいないし、揺るぎなき階級社会なので、兵から下士官、尉官、佐官、将官の間には不動の順位があっる。わたしは今は中尉だが、ここから先は日々の成績が昇進を左右するらしい。(わたしのハンモックナンバーは117人中の16位だし) が、一方でわたしは日曜日に教会に行かれず、就寝前に心の中で「主の祈り」を唱えるのがせいぜい。自分の魂と真摯に向き合う時間がない。 更に、わたしを待つチヨの存在がある一方、海軍軍人には家族生活がない。 わたしはできる範囲で自分なりの人生を歩みたいと思うようになった。 第121回 海から陸へ、空へ 3 「山城」に5か月ほど乗務してから横須賀の海軍水雷学校普通科に移った。士官は水雷学校と海軍砲術学校普通科で半年ずつの授業を受ける。 軍艦同士の戦闘は大砲が主役だが水雷もこの時代には威力のある兵器であった。 水雷には三種類ある。 a 推進力を備えていて自力で敵艦に向かう魚雷 b 海中や海底で敵艦が近づくのを待つ機雷 c 潜水艦に向けて投下される爆雷 aは内燃機関と燃料、酸化剤を備えて水面下をまっしぐらに走る。速度は砲弾より遅いが、同じく敵艦の動きを見込んで発射しなければならない。発射管は大砲よりずっと簡便で、小型船にも装備でき日清・日露戦争で戦果を挙げたため日本海軍はこれを重用し、後には純酸素を酸化剤に用いる優秀な魚雷を開発し飛行機による雷撃の訓練にも力を入れた。 bは敷設が容易で安価。うまくいけば効果が大きい。機雷を除去する作業は掃海と呼ばれる。 cはドイツの潜水艦に英国の艦船が魚雷で沈められたとき、これに対抗するために英国が作った。 自分の乗った艦での実戦時、わたしはこの知識と訓練の成果を応用するのだろうか。 第122回 海から陸へ、空へ 4 チヨから手紙が来た。 筑紫郡太宰府尋常高等小学校に訓導として赴任したという。人生の階梯を一歩進んだ。しかし小倉高等女学校を首席で出ているのに、役不足ではないか? と思った我が慢心を反省する。伸び盛りの子どもたちを導く小学校教師は立派な仕事だ。チヨは優れた教師になるだろう。 自分の周囲は肩書きばかりで立身出世は気持ちいいだろうが、普通の人々から遠ざかっている。神の前に立つときは人は人で、海軍の正装ではないのだ。… 後から私が日曜学校の教師を務めるようになったのはこの時の神の声があったからだ。 トヨからも手紙が来た。 末次郎は東大経済学科を卒業して三井銀行に就職し横浜支店勤務になり、一歳の武彦も順調に育っているという。 第123回 海から陸へ、空へ 5 1919年五月、わたしは26歳で海軍砲術学校普通科学生になった。半年の履修が義務になっている学校は横須賀にあったので、いままでと同じ寮から通学できた。 砲術といっても原理は単純で、銃と砲の違いは大きさだけ。銃身には先と元があり、その元の方を弾丸と火薬で塞ぎ、引き金を引いて火薬に点火。これで大量の高圧のガスを発生させて弾丸を銃身から押し出す。 軍艦に装備されているのはほとんどが砲で、上甲板に設置された砲塔に組み込まれる。砲塔は左右に回転し砲身は上下に動くが、これで狙いを定める。 口径は巨大で、戦艦「山城」の主砲は口径が三十五・六センチ。十キロも先まで届き、弾着の確認のために艦橋はどんどん高くなったが、地球の丸みのために敵艦はなかなか見えない。 わたしたちは無数の用語を覚え、理論的に理解し、実戦の場で使えるよう深く認識する。近代の戦争はすべて用語でできているのだ。 しかしわたしは素朴な疑問にかられる。 波に揺られているのになぜ狙いを定められるのだろう? 第124回 海から陸へ、空へ6 軍艦は横に繋いだ二基の望遠鏡の測距儀を用いて、相手との距離を測る。 二つの望遠鏡の捉えた像が合致するように手元のダイヤルを調整すると目標との距離が得られ、それに合わせて砲身の射角を決める。 実戦では発射の前に、風向風速、自艦運動、空気密度、気温、弾種、地球の自転、などなどに応じて砲身の角度に修正を加えなければならない。 あの頃わたしは夜になると、まったくの素人であるチヨに教えるつもりで、その日の抗議を辿り直すのを習慣にしていた。 顔の幅が数メートルもある大男を想像させ、「地球の自転がどうして関係があるの? どっちの艦も同じ地球の上にいるんでしょ」という問いに「砲弾が空中を飛んでいる間にも地球は回るから」と説明する。 基本的には砲弾は当たらない。それを前提に対策を講じるが、それでも発射の瞬間の不確定要素は残る。 それが例えば波による艦の揺れなのだ。うねりには周期があるから同期させれば影響は回避できるはずだが、それは名人技。 実戦では当たるのはせいぜい百発に一発で、まさに「下手な鉄砲」なのだ。 第125回 海から陸へ、空へ7 同年暮れ、わたしは建造中の駆逐艦「沢風」の艤装員に任命された。 郷里の長崎には竣工までの三か月間いられるので、休日には懐かしい町を歩くこともできる。 砲術学校を出て長崎に赴任するまでの十日ほどの賜暇。急ぎ横須賀から横浜に出て西に向かう汽車に乗り、博多で乗り換えて11月22日、二日市に向かった。新嘗祭があるのだ。 途中で水城の駅に停まったときツルさんのことを思い出した。もう10年ほどまえのことだ。 秋吉の養父母が営む宿「肥前屋」はまずまずの繁盛で二年前にここでトヨがわたしの甥の武彦を産んでいる。 着いた翌日の二十三日の新嘗祭は二十四名社の二十四家の家長がそろって祭事に参列することになっている。 父は紋付き袴、わたしは海軍の軍装で八幡社に向かった。 神事の儀式はトヨならば赦せないだろうが、わたしはそこまでの厳しさはない。お伊勢講から発してなにかと神社の支えとなってきたこの緩やかな結社だから郷土の縁で一員となるのも悪いことではない。 近くの料亭での宴会は和服に羽織で赴いて、緩むことができた。 第126回 海から陸へ、空へ 8 わたしが艤装に立ち会うことになった駆逐艦「沢風」は軽快かつ敏捷を旨とするので、「山城」の排水量3万tに対して1200t、長さは半分、幅は三分の一だが「山城」の最大速度23ノットに対して39ノット。任務は大きな艦の直衛で潜水艦退治も期待されている。 主たる兵装は十二センチ砲四門。魚雷発射管三基。魚雷は砲に比べ簡便で威力があり、大艦巨砲以上の戦果もあり得る。魚雷は水面下に当たるので敵艦の被害は大きいと学校で学んだ。 そもそも駆逐艦の起源は水雷艇で、水雷艇を駆逐する意。つまりお互い敵を圧倒するために大型化したのだ。 乗組員は百五十名ほどで、赴任時は完成予定が三か月以上先だったので、毎日三菱造船長崎造船所に出勤した。 同僚と事務所で、資材や装備が届いていること、艦内への搬入と据え付けの段取りを確認。据え付けが終わった装備について動作確認を行うこともある。 艦というものは泊地を離れれば孤立無援。いかなる事態にも自分で処置をしなければならないために旋盤などの工作機械まで備えているのだ。 第127回 海から陸へ、空へ 9 日曜日の朝、わたしは宿舎を出て、聖三一教会の礼拝に赴き、祈祷の言葉を唱和し、聖歌を歌った。ここで牛島先生の立ち会いで信徒按手式を受けたのは16歳のときだ。 祈るうちに身内や知人・友人の顔が次々に浮かぶ。その教えが今のわたしを作り、それを主が見ておられると思うと、わたしは幸福を感じた。 午後、日本のキリスト教徒には歴史的な意義を持つ大浦天主堂に挨拶に行く。 江戸時代初期、幕府の弾圧で、島原で三万余の信者が皆殺しにされて以後、地域ごとの寺が宗旨人別帳を作って住民の心を管理した。 幕末に開国を迫られ、宣教師を受け入れ、一八六四年長崎にカトリックの天主堂が建立され、翌年三月、教会にいたプティジャン神父のもとを訪れた十数名のうちのある女性が神父に「私どもは信徒です」と囁いた(伝・イザベリナ杉本ユリ)。神父が独身で祭壇に聖母の像があることから、同じ主に仕えると確信したと言う。 250年、信仰の火が絶えていなかったことに神父は感動し、ローマ教皇はこれを東洋の奇跡と呼んだ。が二年後、幕府はキリスト教徒への弾圧を強行し(「浦上四番崩れ」)多くの信徒が辛い思いをした。 第128回 海から陸へ、空へ 10 戦国時代、キリスト教の宣教師がやってきた。西国を中心に大名にも信徒が増え信長は京都の教会建立を支援した。 秀吉の時代から弾圧が始まり徳川幕府はそれを推し進め、島原の乱では女子まで三万余人が殺され、やがて仏教の寺が檀家で管理する社会制度が作られた。 秀吉は、国の権威を否定して神の権威に就く人々を理解できなかったし、密かな侵略だと徳川幕府も考えたのだ。 秀吉の時代、京都などの信徒二十四名が捕縛され、長崎まで徒歩で連行される、途中で加わった二名と共に西坂の丘で処刑された。 長崎駅からは山の手の方角の西坂の丘に行ってみることにした。信徒たちがゴルゴタの丘を重ねてここでの処刑を求めたという。 国と信仰は対立することがある。ローマ帝国がキリスト教を公認したのはイエスの死と復活から300後の西暦313年、国教としたのは392年。 主は「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に」と二つの権威を認めている。がわたしは常に迷っている。 何が神で何がカイザルかと。国への奉仕は大事。だが第六戒「汝殺すなかれ」に違反する。この矛盾をわたしは生涯負っていかなければならない。 第129回 海から陸へ、空へ 11 駆逐艦「沢風」が無事に竣工すると、わたしは三か月ほど乗務もした。新任の者ばかりなので和気藹々で楽しかった。 艦船は鉄と鋼でできている。鋳造・鍛造・圧延・切削で形作り、部材をまとめるには鋲と溶接が用いられる。作業現場に近いところに炉を置いて鋲を熱し、これを鋲打ちの職工に投げるとバケットで受け止めて穴に差し込みハンマーで叩いて締めて二枚の鉄板を接合する。これは何千回となく繰り返される。 ところで鉄はそのうち錆が発生しボロボロになるので、ペンキ層で防ぐ。水兵・水夫の仕事の一つは古いペンキと錆をハンマーで叩いて落として新しいペンキを塗り続けることだ。わたしにとって艦上生活の記憶とは手すりをぼってりと覆うペンキの質感であった。 振り返れば「沢風」は幸運な駆逐艦だった。名前が爽やかで好感が持てたし、大きな海戦に参加することもなかった。空母「赤城」の直衛として着艦に失敗した艦載機の救出(「トンボ釣り」)に従事し、戦争中は東京湾からせいぜい日本近海での哨戒が任務で、沈没することなく終戦を迎えた。 第130回 海から陸へ、空へ 12 三か月後、戦艦「霧島」に配属されたが「山城」と同じくらい大きくて乗組員も千名を超え、士官の数も多く「沢風」におけるような親近感はない。 何より大きな艦には暴力問題があって、艦内でしばしば下士官から暴力を受けたあとの兵に出会う。合理的な意味もなく、叩きのめすことで海軍精神が注入されるはずはない。上官として何か足りないものがあるのだろう。 しかし暴力は日本海軍に慣習として定着していて、士官に見えないところで行われるし、士官だとて知っていても介入しないどころか自ら手を上げる者もいる。 数年前、「日進」での火薬庫の爆発事故は上官への不満が原因だったと聞いたが、暴力との関係もありそうだ。 わたしは暴力を振るわれるのも嫌だし自分で振るうのも嫌。そしてその場に居合わせるのも、またその結果を見るのも嫌だ。 第131回 海から陸へ、空へ 13 分隊長心得としての「霧島」の勤務が四か月ほどで終ったあと、佐世保鎮守府附という辞令があった。 佐世保は今両親が住んでいる町。「阿蘇」「敷島」「安芸」「浅間」「山城」「沢風」「霧島」と渡ってきたわたしが艦を降りたのは6年ぶり。休日を待って親のところに行く。 父は数えで六十五、母も還暦だが元気そうで安心した。 最初の話題は、トヨの子の2歳半になる武彦が一か月前に東京の三光教会で洗礼を受けたことだった。これは二人にとって何より安心のたねだったろうが、二人はあの秘密を知っているだろうか? あの時のことは、子供の頃からトヨに憧れていた末次郎が、まだ東大生だったにも拘わらず、トヨが他の男のところへ嫁に行くのが心配で牛島先生に相談し……ということにしたと、後から聞いた。牛島先生の言葉は家族にとって絶対なのだ。 末次郎は三井銀行に職を得て横浜支店に勤務している。 両親があのことを知っていても知らなくてもよい。トヨ夫婦は仲睦まじく暮らし、子はすくすく育っている。 それで充分、この子の上に主の祝福はたっぷりとある。 佐世保鎮守府で、進路についての上官の面談があった。 あと一か月ほどの、12月1日で大尉に昇進。5,6年後には少佐となって駆逐艦の艦長ということもあり得るが、履歴と成績から学究肌ではないか? と問われ、即座に海軍大学校に進んで航海術を学びたいと答えた。 会戦までの艦を迅速に運ぶのは航海の仕事。ハンモックナンバーも良いのでやってみたらいい、と言われ、わたしは受験し、合格した。 自分にふさわしい位置に身を置けることが嬉しい。校舎は築地にある。東京は初めてだ。横浜のトヨ一家に会うのも容易だ。 第133回 海から陸へ、空へ 15 しばらくして、兵学校で同期のMから小さな料亭に呼び出された。祝いのつもりだろう。 Mは海軍省の大臣官房海軍文庫で戦史を担当していて、古今東西の海戦の記録はすべて記憶していることから生き字引ならぬ地引き網と呼ばれたりする。 私はこれから海軍大将になれなくていいから陸上に切り替えたいと思っているとMに話すと、Mも今の仕事では大将になれないので、お互いさまだ、という。 殴られた兵を見すぎたが陸なら見ないですむ、と私が本音を言うとMは自分が艦上勤務から海軍省詰めに回される理由になった、脚を悪くしたいきさつを話してくれた。 Mが駆逐艦で資材の積み込み監督の任に当たっていたとき、魚雷を木枠で上げる作業中に艦が大きく揺れ、魚雷の一本が脚を砕いたと。 その荷が落ちたのはロープを掛ける玉掛けの手抜き。しかし担当兵は、精神棒で痛めつけられていて体の動きが不自由だったのだという。 第134回 海から陸へ、空へ 16 軍隊は閉じた場だから淀んで腐るんだ、とMが言う。 大日本帝国海軍は英海軍を範としたが、そこで殴ることも学んだ。イギリスは裸の背中を鞭で叩き血まみれにする。 根底にあるのは厳しい階級制度。士官と兵、貴族と平民、農民とはそもそも体格からして違う。 士官は率先して戦う高貴なる者の責務、というものもあり、それが部下への暴力となる。 しかも海軍の場合は叛乱に対する不安があって、恐怖による支配を制度化した気がする、とM。 遠い海で単艦行動していた場合、人望のある部下が兵の不満を束ねたらどうなるか。 士官と兵では多勢に無勢だから士官たちは孤立無援の立場に置かれかねない。武器庫の鍵は艦長が持っているというのもそういうわけだ。 第135回 海から陸へ、空へ 17 Mの面白い話は続く。 英海軍史には『バウンティ号』の叛乱事件がある。 当時大英帝国は世界中に植民地を持っていた。 英国はコロンブスが発見した西インド諸島でサトウキビを育て、高価で取引したが、労働力としてアフリカ黒人が奴隷として運ばれた。 その食糧不足を補うため、『パンノキ』を使えないかと考えた官僚がいた。 芋に似た実のなるこの木はほっといてもなる。そこで苗を西インド諸島に運んで植えることにした。 英国は植物で稼ぐのがうまく、禁制のゴムノキの種をブラジルからマレー半島に盗み出してたくさんのゴム園を作ったし、キニーネを広めたりもした。 パンノキの苗を運ぶ船は44名の軍人と植物学者が2名乗ったが、230t長さ28mの船は、世界一周には小さいが、もう船ではなく艦だ。 第136回 海から陸へ、空へ 18 「バウンティ号」の艦長は狷介で吝嗇。そんな艦長の下で40人以上の男がひしめいて不満が増し、さらに食糧問題が起こった。誰かが横流ししたらしく、無残な食糧しか残っていない。そこで横流しの疑惑のある男を艦長は全乗組員の前で鞭打ちにし、さらに若い男を寒風の中で檣頭に上げて降ろさない…… 艦長は狷介を装う、というところから、ビーグル号の話になった。この艦は5年かけて地理や博物学の調査のために世界一周をしたが、艦長は軍人でない話し相手がほしくてダーウィンを同行していたため、有名な進化論が生まれた。そこでMが信者の私が「進化論」をどう思うのか、と問う。『創世記』は一つの物語として受け取っているので両立している、と私は答えた。 第137回 海から陸へ、空へ 19 バウンティ号は喜望峰を回ってインド洋を越えて太平洋に入る進路を取ったが、出発から1年ほどしてポリネシアのタヒチに着いた。 タヒチでパンノキの苗が揃うまでの半年を島で暮らすうちに、誰もが自分たちを歓待してくれる恋人を得た。が、艦長のブライは厳しく自らを律して自由に行動できなかった。あげく綱紀粛正のために兵に鞭打ちをした。そのうち逃亡した三人がいて、捕まえるとまた鞭打ち…… 第138回 海から陸へ、空へ 20 バウンティ号がタヒチを離れる日がやってきた。その三週間後、信望のあった航海長格のクリスチャンが、44名のうちの11名をまとめて艦の支配権を奪い、ブライ艦長以下19名を全長7mのボートに乗せて海に放った。そして中立の立場を取った13名と共に、クリスチャンはタヒチに戻った。 叛乱罪は死刑になる。 クリスチャンは8人の仲間と18人のタヒチ人を乗せて無人島へ行き、そこで暮らし『バウンティ号』は解体して資材にした。 ブライたちは41日かけてチモールという島に着き、帰国し、顛末を報告。叛徒の残りがタヒチで見つかって、絞首刑になった。 第139回 海から陸へ、空へ 21 クリスチャンに率いられた8名と同行したタヒチの男女・子供18名はピトケアンという無人島に着いた。 20年後、たまたま立ち寄った船が彼らを見つけた。その時は女が10人、子どもが23人、男は一人だけ。 英国の水兵とタヒチの男たちは女たちを巡って争い、ジョン・アダムスという水兵一人が生き残った。彼は一冊の聖書を頼りに女たちを統率していた。 わたしはカインとアベルの初めての殺人のことを思い出した。カインとアベルもエホバを巡る三角関係だと言えるかもしれない。人が二人いれば力関係が生じ、資産の争奪が起こる。 旧約の神エホバは厳しく、新約の主イエスは愛の力をまず言う。ジョン・アダムズの状態は旧約的ではないだろうか。 第140回 海から陸へ、空へ 22 わたしはこれから先、天文をやりたいと思っているとMに話す。 頭が戦闘より計算向きだから、と言うとそれに「お祈り」とMが付け加えたので、大学校の口頭試問で『耶蘇で軍人が務まるか』と言われた際に瓜生外吉の名を出して言い負かして合格したエピソードを話す。 Mはというと、公務の際の負傷なので上部も同情的。 戦史に詳しいことで海軍省大臣官房の海軍文庫に行きたかったが、ここの主幹になれるのは少佐以上なため、救済措置で海軍省出仕、大臣官房大臣承命服務で戦史研究の職務をもらったという。 こんなふうにあの頃は万事緩やかだったのだ。 開戦となり戦況が悪化するとMは密かに海軍の条約派に呼び出され、上手い敗戦の事例を提出していた。 第141回 海から陸へ、空へ 23 水路部へ進路を取りたいと考えた理由の一つはチヨの言葉だった。 『親たちが自分たちを娶せようとしているが、官員や腰弁と違って利雄は船に乗ったら帰ってこないのが寂しくてためらってしまう。』 チヨと結婚したいと思うたびにこの言葉はついてまわる。 わたしは艦と航海が好きだが、実戦となると運動会の騎馬戦のようなもの。正面攻撃あり、相手から後ろから攻撃されることあり。訓練を積み、万象を考慮し、運を読んで敵に勝つことこそ海軍軍人の本懐。 そんな勇猛な男子の思いにチヨの言葉が水を差す。 わたしの中ではいずれは戦艦「山城」の艦長という夢よりも毎夕チヨの待つ家へ帰るという夢の方が大きかった。それが密かにわたしを水路部の方に押し出した。 第142回 海から陸へ、空へ 24 築地の海軍大学校へ入学した時は航海学生という身分で各種の科目を1年履修する。 「部外学校委託教育制度」を用いると他大学での講義や演習が受けられる。いずれは東大か京大の天文学か、東京天文台へ進もうと思っていた。航海学生は少人数なので甲種学生と共通の科目もあって、模型で戦ったり、砲撃の命中をサイコロで決めたり。子どもっぽくて面白いが、これで一国の運命が決まるのか? ある日の戦史の時間にMが教団に立ったのには驚いた。Mが古代史のサラミスの開戦について講義する。 ペルシャとギリシャの海戦では、倍近い数のペルシャ軍を、ギリシャは勝手しったる自分の狭い海戦に誘い込むことによって、殲滅させたという。その時の三段櫂船は漕ぎ手を三段に配置していてゲジゲジそっくりな船だ。 沈没数は200対40。Mの名講義だった。 第143回 海から陸へ、空へ 25 ある冬の晩、授業が終わった後でわたしは岸辺に立って空を見た。 向かいに築島の灯りが見える。月はない。星の観測を始められるのは天文薄明という段階からで太陽が地平線から12~18度下にある時からである。 わたしは各地で星を見てきたが、いつも星天に圧倒される。無数にある星の一つをまっすぐに見ると自分とその星が一つの線で結ばれる。 西の空の金星を見た。惑星である金星は夜ごとに位置を変えるが他の動かない星、恒星は星座が描ける。 星天と向き合っていると自分が一つの点になり、万象は絶対不動と思われる。だから自分の位置や艦の位置が知れる。 わたしは点になった自分が好きだった。わたしもまた星であるか。 第144回 海から陸へ、空へ 26 ある日、水路部四課の中野徳郎技師から呼び出された。四課は天文と潮汐。 水路部は海軍大学校のすぐ隣にあるが、この一角には他に経理学校や造兵廠や艦型試験所や施療病院、兵器庫がある。 中野技師は、私が入学前から水路部、しかも天文方面へ行きたいという希望を出していたことが珍しく、会ってみたかったようだ。 大砲より星が好きだ、というと中野氏は笑って水路部について概要から語ってくれた。 水路部の400人ほどの多くが民間人。軍籍のある者は30名もいない。 四課の匂いは潮の匂いではなく数字の匂い。数字の間違いは艦を沈ませるので、数字の悪夢を見ることになる…… 第145回 海から陸へ、空へ 27 英語はしっかり身につけるように。 中野さんの話が続く。 6月にモナコに国際水路局が発足して水路誌について2年前のロンドン合議を具体化して事務局を作った。 海に国境はない。海図などは様式を統一して互いに使えるようにした。度量衡の統一もし、水深はメートル法になった。 キリスト教徒だということで肩身が狭い思いをすることもない。 帰りに中野さんは数学のパズルを一つ出してくれた。答えがわかったらハガキで知らせるように、と。 第146回 海から陸へ、空へ 28 水路部からの帰り、度量衡の話を思い返していた。英国は妙なところに不合理を残し、因習にしがみついている。 話に出た長さもそうだが、重さもそうだ。1ポンドの下のオンス、インチ、あるいは大麦1粒の重さであるグレーンなど、十進法ではないのだ。こんな体系で暮らしたり研究したりはさぞ大変だろう。 例えば1個3ペンスのリンゴを7つ買って1ポンドで支払った場合の釣り銭を暗算できるか? ということだ。そのうえ、家賃や謝礼などはギニーという別の単位が使われるのだから夏目漱石は大変だったろう。 その晩、わたしは数学パズルの答えを送った。そのままでは答えは出ないので、9のカードをひっくり返して6にした。 中野さんから返事が来た。 パズル作家が作った問題だが、その答えよりきみの答えの方が美しいと思う。 第147回 海から陸へ、空へ 29 数日後、昼休みに六分儀を携え、友人に手伝ってもらいながら、久しぶりに太陽の南中を観測した。 南に水平線が見えるところを探して、十一時五十八分、六分儀を構えて待つ。 雲があればその隙間から太陽が見える瞬間を狙えば観測はいつでもできる。が、それだと時間補正を加えなければならないので正時がよい。 まず六分儀の小さな望遠鏡の前に減光板を入れた。 天文学者にとっては太陽も一つの恒星だがものすごく近いところにあるために眩しい。 望遠鏡の丸い視野は左右に分かれていて、左側には水平線が見え、右側には空が見える。示標幹を動かして空の太陽を視野に入れその下端が水平線に接するところまで示標幹を送り正午に固定する。 計算すると今いる位置は北緯三十五度三十九分三十四秒 東経百三十九度四十六分九秒。 誤差は数秒、二百メートルくらいか。 数日前に見た金星は、厚い雲に覆われていると仮定しないと、あの明るさは説明できないそうだ。 では、金星に人間がいたとしても天文学者はいない。 148回 海から陸へ、空へ 30 (利雄の手紙) チヨへ お前は字がうまいね。尋常高等小学校訓導は立派な仕事だよ。楽しそうなのが嬉しい。 昨日は遊びで天測をした。六分儀と時計を使えば自分のいる場所の位置がわかる。どんな道具を使ってどうやって測るか、自分が勉強していることをチヨにも教えたい。 天体の動きは究極の合理で人為は混ざらない。信仰と自然科学は矛盾しない。チヨとこういうことを顔を合わせて話したい。 2021年1月 《わたしは、いくつかの戦艦や駆逐艦を経て、海軍大学校に進んだ。いずれは水路部で働くことを希望するようになる。大きな戦艦「霧島」で、艦内での暴力に嫌気が差し、チヨとの生活も理由の一つだった。》 第149回 三つの光、一つの闇 1 29歳の海軍大尉のわたしが東京帝国大学の天文学科に入るべく準備をしていた1922年。 二月にワシントン海軍軍縮条約が結ばれた。 今の平和は仮想敵国との武力・戦力の均衡の上にあるろ思ってせっせと造艦に勤しむことの負担は重く、冷静に考えればバカバカしいことだ。これはたとえば消防自動車ばかり作るようなもので、火事対策以前に通常の産業の隆盛を目指すべきだ。 だから軍縮になる条約締結は好ましい。 四月、井上チヨと結婚。軍人の結婚は許可が必要なので海軍大臣宛に「婚姻ノ件出願」の書類を作り、妻となる者の住所姓名身分などを記して提出した。 噂だと、この制度は水商売などの女との性急な結婚を防ぐためだったということだが、わたしの場合はまったく問題ない。 チヨは父井上岩吉の妹シゲの次女であり、従妹であり、幼なじみだ。 それは親しい同輩がよく知っていてわたしはよく「未婚の妻(さい)ノロ」と笑われた。 第150話 三つの光、一つの闇 2 大正十一年四月、わたしとチヨは、東京の聖公会三光教会で婚姻の秘蹟を受けた。婚約してから11年がたっていた。 式には佐世保の両親、二日市の養父母、ミ子、末次郎とトヨ、4歳の武彦、牛島先生と奥様の胡蝶さんが来てくれた。 わたしが水路部を目指したのには常にチヨのそばに居たいということと、日曜ごとに教会に行けることも理由だった。 教会は基本的には信徒たちの浄財で賄われる。 聖公会は世界に広がる大きな教派だから非常の時には国を越えて助け合う。日々の活動は信徒たちの無償の働きに負い、成果は聖ペテロの帳簿に付けられる。その教会の活動に手を貸すことのできる喜び。 わたしは嬉しく浮かれていた。 軍籍にあるかぎり俸給は保証され、日々の糧に困ることはない。 物理学・天文学では数理の真実が保証されている。その先に魂の世界があり、その入口は教会の扉である。 151話~300話
by hitujitonekoto
| 2021-08-20 10:46
| 新聞小説を読む「また会う日まで」
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